アルフォンソの両親との話 ※虐待や一部暴力的な描写があります
青年は約束されていた将来を捨て、娘の手を取った。
娘は絹織りの牢獄から逃れ、青年の手を取った。
2人とも家族を捨て、駆け落ちをした。
家族を捨てても2人は永遠に共にいようと誓ったのだ。
誰の思いを裏切っても、お互いを一番大切にしようと決めた2人だった。
青年の名は、セルジオ・バラッカ。
栄誉ある軍人の家の三男坊だった。
娘の名は、マリアンナ・ボルハ。
高名な貴族の家の一人娘だった。
後ろ盾をなくした青年と、世間知らずの令嬢。
寄る辺のない2人が知らない街で生きるのは簡単なことではなかった。
生活は厳しく、頼れるものもないなかで、セルジオは漁師の下働きに入り、マリアもよく彼を支えた。
若い夫婦は少しずつ街に馴染み、やがて青年は、小さいながらも自分の船を持つようになった。
ある日青年は父になり、娘は母となった。
2人の間に、赤ん坊が生まれたのだ。
アルフォンソと名付けられた男の子。
ニコニコとよく笑う、愛想のいい子だった。
セルジオはますます仕事をはりきり、家を空けることも多くなったが、夫婦の愛は色褪せることがなかった。
父と母と子、港町での、細々とした3人暮らし。
アルフォンソは母にべったりで、貧しいながらも愛されて育った。
父であるセルジオと接することは少なかったが、父が出かけるときに必ず言った言葉、「俺がいない間は、お前が母さんを守れよ」という約束は、大事に思っていた。
どちらが先に母のもとに走って行けるか、なんて遊びもしたものだ。
セルジオはいつも大人気なく走って、どうやっても追いつけないアルフォンソを泣かせて、マリアに叱られていた。
一家の幸せにひびが入り始めたのは、母、マリアの胎に新しい命が宿った矢先のことだった。
セルジオの船や網が傷つけられたりする事件が起きるようになったのだ。
よそ者である自分たちへの嫌がらせかと、夫婦は考えた。
しかし、怒りに燃えて犯人探しをしたセルジオがたどり着いた結論は、
マリアの家、ボルハ家からの嫌がらせだった。
マリアはこんなに遠いところまで逃げたのに、そんな筈はないと首を振ったが、セルジオはそう信じて疑わなかった。
口論ひとつなかった夫婦はその時初めて、言い争いをした。
そして嵐の日、港にしっかりと固定されていたはずのセルジオの船は、残骸となって浮かんだ。
杭か縄が腐っていたのだろうとか、ちゃんと固定していなかったのだろうとか、人は好きに言ったが、まだ彼を助けようとする人はたくさんいた。
仕方なく漁師仲間に借金をして網などを買い、また他の船を間借りして仕事を続けようとした父に、さらなる苦難が降りかかった。
船を貸してくれると言っていた漁師仲間までもが、突然に「これ以上船は貸せない」と首を振ったのだ。
収入源を絶たれ借金だけが残ったセルジオは、一晩家に帰らなかった。
翌日ふらふらと玄関の扉を開いた父からは、ひどい酒と吐瀉物の匂いがした。それでも母、マリアは泣きながら父を迎え入れ、帰ってきてくれて嬉しいと、思い切り抱きしめた。
マリアの励ましもあり、セルジオはなんとか頼み込んで別の船の下働きとして雇われ、働き始めた。一家には、なんとしても金が必要だった。
妻の腹に宿った新しい命、アルフォンソの弟か妹の出産費用。体調を崩しがちになっていた妻と子のためにも、セルジオは歯を食いしばって働いた。
セルジオの酒の量は、その頃から徐々に増えていった。
仕事場でのことを、セルジオはマリアにもアルフォンソにも話さなかった。今までもそうだったが、何がたくさんとれただとか、そういう明るいことをたまに言うことはあっても、不満などは家に持ち込むことがなかった。
一度、マリアが仕事のことを話すよう促したことがあるが、セルジオはただ「君に俗世間のことなんてわかりはしない。わかってほしくもない」と呟いて、それ以上何も語らなかった。
今も、思うようにいかないことはいくらでもあるのだろう。安酒を煽りながら、ただ黙って肩を震わせるセルジオを、マリアは強く咎めることはできなかった。
しかし、やっとありついた下働きの仕事さえ、長くは続かなかった。その年は記録的な不漁が続き、彼はまたも職を追われることになったのだ。
借金を返すあてもなく、そのせいで漁師仲間たちとも不仲になってしまった彼に、もう海の仕事はできなかった。
それからも、セルジオは職を探しに走り回った。不漁のせいか港町はどこも不景気で、隣町やその隣まで職を探しに行かねばならなかった。
次の仕事も、マリアを任せられる病院も見つからず、日雇いの仕事で暮らす日々が続いたある日、バラッカ家に訪問者があった。
マリアの実家、ボルハ家の人間だった。
お腹の子の身を案じて、マリアが自分の母へ、窮状を訴える手紙を送っていたのだ。マリアは父母に大事にされた箱入り娘。家を捨てきれてはいなかった。
出産の面倒を見る代わりにボルハ家が出した条件はひとつ。セルジオをついてこさせないことだった。
マリアは必ず生まれた赤子を連れて帰るとセルジオに約束し、アルフォンソをお願いと言い残して車に乗った。
セルジオは一度だけ壁を拳で叩き、わかったと呟いてマリアを見送った。
彼女を箱庭から連れ出した時、絶対に守るとか、必ず幸せにするとか、苦労はさせないとか、そんなことを言った。そう約束したはずだった。
二人の間の約束には、もうひびが入ってしまっていた。
アルフォンソは父の制止を振り切り、家を飛び出して遠ざかる車を追いかけたが、あっという間に引き離されてしまった。
もしかしたらアルフォンソ以上に母と離れ難かったのか、父は、少しでも早く母と赤子を迎えるため、ボルハ家のある街へと向かった。
その間アルフォンソは、父の数少ない知人に預けられた。
その男は飛行機の整備士をしている軍人だとかで、ちょうど軍役のない時期だった。
母にも会えず暇を持て余すアルフォンソは、学校から戻るとだだっ広い滑走路の片隅にある小屋から、飛び立つ飛行機を眺めていた。
数週間して、父、セルジオが迎えにきた。
しかし戸口に立ったとき、今にも死にそうな顔をしていた。それを見かねた知人が別室へ引っ張って行った。
それから少しして、父はただ「帰るぞ」とだけ言ってアルフォンソの腕を掴み歩き始めた。
母や赤ん坊はどうしているのか、呼びかけても返事はなく、口を引き結ぶ父の表情から、ただならぬ雰囲気だけ伝わった。
アルフォンソは、母と赤ん坊になにかがあったのだと子供ながらに察して、わけもわからずすすり泣きながら家路を歩いた。
家に戻ったアルフォンソを迎えたのは、見たこともないほどやつれた母だった。
それでも母に会えた喜びが勝り、アルフォンソは駆け寄って母を抱きしめた。
母は微笑んで、いつものように抱きしめ返してくれた。
ああ、いつも通りのママだ、とアルフォンソは安堵した。そして、その喜びのままに、「ねえ、赤ちゃんはどこ?」と尋ねた。
一瞬にして曇った母の顔を見て、また不安に駆られ、尚も尋ねたが、いつもなんでも答えてくれるはずの母は顔をくしゃりと歪ませ、固まってしまった。異様な雰囲気に押しつぶされまいと尚も問いかけた時、急な衝撃にアルフォンソの体は吹っ飛んだ。
アルフォンソにはなにが起こったかわからなかったが、母の悲鳴と、頰の刺すような痛みと、ぶつけた背中の痛みだけは感じていた。
父が、セルジオが初めて子供に手をあげた瞬間だった。
マリアはアルフォンソを抱きしめて、泣きながらセルジオに謝った。
セルジオはぼんやりと妻子を見つめてから、我に返って泣きながら謝った。
ママを泣かせてはいけなかった。赤ちゃんのことを聞いてはいけなかった。
アルフォンソは自分が何か悪いことをしたのだろうと、なんとなく思った。
その日は、それで終わりだった。
実際、赤ん坊は死産だったと、夫婦は聞かされていた。
エリザベッタと名付けられるはずだったその赤子が無事に生きて、
ボルハ家で密やかに育てられていることなど、知るよしもなかった。
それから、セルジオの酒の量は増える一方だった。
酒浸りになった彼はいつも怒りに支配されているように見えた。
アルフォンソは時どき何かささいな理由で殴られるようになり、父が酒を飲んで帰るたび、細い体にはいくつも青あざがついた。ときには、真っ暗な倉庫へ放り込まれることもあった。
近所はバラッカ家との関わりを避けた。
まるで、一家がゆっくりと破滅していくのを見守るように。
倉庫の中は狭くて暗くてかびくさくて、幼い彼に恐怖を植え付けるには十分だった。いつも泣き疲れるまでドアを叩いていた。毎回、ドアを開けて外に出してくれるのは母だった。
そういう時、決まって母は、ごめんなさいと泣いて謝った。
アルフォンソは、自分が悪い子だからいけないのだろうと、心のどこかでそう思っていた。罰を与えなければいけないような悪い子だから、母も自分を助けることができないのだと、そう自分を納得させていた。
父が、自分を庇おうとした母に対し手をあげるまでは。
その時はっきりと、アルフォンソはセルジオを敵と見なし、
それからは、父から母を守ろうとするようになった。
学校が終わると遊びもせずまっすぐに母の待つ家へと帰り、母の内職を手伝った。そのうち学校をさぼって、整備場で手伝いをし、小遣いをもらうようになった。年も2歳サバを読んで、新聞配達もやった。
父の帰ってくる朝から夜にかけては必ず母と一緒にいて、息を殺して過ごし、運が悪いときには、降り注ぐ暴力に耐えた。
周囲の大人がアルフォンソを引き離そうとしたことは、1度や2度ではない。それでもアルフォンソは「ママと一緒にいなければ」と家へ戻った。
酔うと化け物のようになった父だが、常にそうではなかった。
日中、酔っていないときに家へ帰ると、花束を母に渡し、いままでのことを詫び、稼いできた生活費を渡した。そのたび母は頷いて父を抱きしめていたが、アルフォンソは3度目あたりでもう飽き飽きしていた。
酔っている時の父の印象が強すぎて、今更真人間のような顔を見せられても気持ち悪く感じたし、態度にも出した。
そうすると父は押し黙り、足早に家を出て行く。母は父をなんとか連れ戻そうと追いかけて行ってから、帰ってきて悲しげにアルフォンソを見て、パパのことを許してねと言った。
勿論、許す気なんて無かった。自分がもう少し大人で、まとまったお金さえあれば、今すぐにでも母を連れてここを出て行ける。だが今はそのどちらもない。母を路頭に迷わすわけにはいかない。自分が殴られて済むのならもうしばらくは耐えられる。あるいは、父よりも自分が強くなることができれば。
そうして日々をやり過ごすうち、アルフォンソは15歳になっていた。
この頃になるともう、父が生活費を持って帰ることも少なくなり、母も外に働きに出ていた。
母の美しかった指先があかぎれてひび割れているのを見るのは、アルフォンソにとって何より辛かった。
だが、こつこつと貯めたお陰で、借金をまとめて返し、この街を出られる希望が見えていた。
その日アルフォンソは母の誕生日に花を買って、家路に着いた。
玄関まで来てすぐ、強い酒の匂いと、廊下の靴跡に気づいた。
痛い、やめてという女の泣き声に弾かれるように走って居間へ入ると、母の豊かな金髪が床に広がっていた。
そして、細い母の体に馬乗りになっている男の姿を見た。
アルフォンソは激昂して飛びかかり、思い切り父の体を横に突き倒した。
倒れた父の手から、何か金属が床に転がった。
テーブルに置いていたナイフ。先端に血が付いている。
素早く母に駆け寄ると、未だパニックのまますすり泣く母の白い腕に、ナイフで文字を刻んだような傷があった。セルジオと、父の名前が。
そこから先は怒りで頭が真っ白になって、アルフォンソは父を罵倒した。逆に、心のどこかがすうっと冷えていくような感覚もあった。
もういい、カタをつけろ。こいつは敵だ。さすがの母にもわかっただろう。
そして、起き上がって襲いかかって来た父に、拾い上げたナイフを無我夢中で突き立てた。
死ね、死んじまえ、クソ野郎。
そんなことを言ったかもしれない、言わなかったかもしれない。
父はナイフが刺さったまま後ずさって、その場に崩れ落ちた。
もういい。自分が人殺しで捕まったとしても、貯めてある金はある。母がそれで自由になるならばそれでいい。
アルフォンソはただそう思って、母に別れを言おうと振り向こうとして、突き飛ばされた。
マリアはアルフォンソを突き飛ばして、倒れたセルジオのもとへ駆け寄った。
血の流れる自分の腕を気にする様子もなく、セルジオの胸へ顔をうずめながら、私を置いていかないで、ひとりにしないで、と泣き叫んだ。
アルフォンソがどうしてそんな奴に、そんなことをされてまで、と呟きながらふらふらと近寄ると、今までに見たこともない顔で、マリアは振り向いた。
血と涙に濡れ、憎しみに満ちた顔だった。
どうしてこの人を殺したのとかすれた声でつぶやき、それから絞り出すように、
ひとごろし、お前なんか産むんじゃなかったと、呪いの言葉を吐いた。
それでやっとアルフォンソは、今までの自分の勘違いに気づいた。
母が父から離れなかった理由。
それでも愛していたからだ。父のことを。
母が自分を守るより父といることを選んだ理由。
愛していたからだ。自分よりも父のことを。
母が自分を愛おしげに見つめる理由。
髪の色を褒め、目元や耳の形を喜んだ理由。
最愛のセルジオに似ていたからだ。
母にとって自分は父の模造品であっても、最愛ではなかった。
吐き気に襲われて、アルフォンソはふらふらと廊下を歩き、落ちた花束の上に、胃の中のものをすべて吐いた。
血濡れのまま医者を呼びに行き、それから父を刺したと警察へ自首し、全てを包み隠さず話した。
最後に見た母は、おねがい、誰か医者を呼んで、と座り込んだまま泣き叫ぶ姿だった。
その誰かが自分ではないことは、わかりきっていた。
こうして、アルフォンソは両親を失い、
こうして、夫婦は息子を失った。
青年は約束されていた将来を捨て、娘の手を取った。
娘は絹織りの牢獄から逃れ、青年の手を取った。
誰の思いを裏切っても、お互いを一番大切にしようと決めた2人だった。