夜明けを望みます。 滅びを望みます。 そう言える者であれたらと、 望んでいました。
ミハイル・アントネスクは、人間の歌手だった。
少なくとも、5年ほど前は。
さる西の大陸の一国では舞台芸術の文化が豊かで、辺境地主の庶子であった彼は、少年の頃から美しい歌声と美貌に秀で、若くして歌劇舞台に欠かせない存在となっていた。
ある日、彼の後援者(パトロン)になりたいと、貴賓席の常連客が声をかけてきた。
彼の歌声にいたく感じ入り、力になりたい。
支援を惜しまないから、我が館にきて、晩餐の席でも歌ってほしい、と。
花形とはいえ年若く、劇場との付き合いもあるミハイはこの上客の誘いを無碍に断れなかった。
呼ばれた館は、どの窓にも分厚いカーテンがついていた。代わりに燭台が多く、煤払いの使用人が忙しくしていた。
廊下に並ぶ調度品はすべて歴史的に貴重なものであり、日光による劣化を避けるため、このようにしてあるのだと。
館の主人は余程、骨董品に愛着のある人物らしい、と思いつつ、ミハイは案内されるままに館の奥へと進んだ。
晩餐の席で彼の歌を聴いたあと、館の主人は奇妙な話をはじめた。
「本当に素晴らしい。磨き上げられた天上の歌声だ」
「だからこそ、惜しい。歌声も美貌も、いずれ衰えるもの」
「貴方の全盛期はまさに今、このときです。ここより先はない」
「その忌まわしい運命を変えたいと思うことは?」
その声は霧の奥から聞こえてくるようで、甘美に誘う響きがあった。
ミハイは慎重かつ、丁寧に答えた。
「価値……美しさにも種類があります。
変わらない美しさと、変わる美しさ。
時の流れに従って老いるのならば、それも自然の営みの一部だと思っています。
それに、全盛期とは、人に決められるものではありません。幼い頃に持っていた無垢な輝きを、いまの私は失いました。それでも、別のものを得て満ち足りています。
割れた古代の器にも歴史という価値があるように、私は老いてこそ得られる価値もあると思うのです」
落ち着いた気丈な言葉とは裏腹に、ミハイの顔は蒼白になっていた。
館の主人の口元に覗く鋭利な牙や月の光に怪しく光る目を見て、気づいてしまったのだ。
ここは吸血鬼の館だ、と。
自分は贄として呼ばれたのかもしれない。
悲壮な覚悟を抱き始めたミハイに、それよりももっと青白い顔の主人は微笑んで告げた。
「貴方はまだ老いや死に面したことが無いから、わからないのでしょう。だが、私は知っている。
体は衰え、声は掠れ、目が濁ったそのときに、昔を甘美に思い出さぬ者は無いのだと。
貴方が一言、ただ一言、明けぬ夜を望むと告げてくれたなら、喜んで我が血族に迎え入れましょう」
ミハイは震えながらも首を振った。
「失われるからこそ、尊いものもあるとは思いませんか。今しかないからこそ、私はこの命すべてで歌うことができるのだと」
館の主人は、慈しむような、しかしある種の嘲りをはらんだ瞳で、彼を見返す。
「いいえ、貴方はまだ自分に多くの時間があると思い込んでいる。それは、若さゆえの読み誤りだ。命すべてを賭した歌声など、明日のある者には出せぬものです。
けれど貴方は賢く礼儀正しく、歴史に敬意を持つ者だ。
ならばこそ、貴方の何倍も生きている私の言葉を聞き入れなさい。失ってからでは遅いのだから」
「考えさせていただけますか。私の如き若輩の身には、あまりに壮大なお話です」
「ああ、どうぞじっくり考えてください。
でも、あまり時間をかけすぎないように。
我々にはいくらでも時間がありますが、貴方は、そうではないのだから」
屋敷の主人は快くミハイを屋敷から送り出し、ミハイは生きて舞台へと帰ることができた。
約束通り、館の主人に言われたことを、ミハイは何度も考えはした。けれど、何度考えても、答えは否、だった。
ミハイにとっての美しさは生き方や考え方にも及び、必ずしも外形にとらわれるものではない。
元からそうであるならば仕方のないことかもしれないが、生き物の境を超えた永遠の若さのために他人の血を啜るのは、ミハイにとっては決して美しい在り方とは思えなかった。
それから1年程は音沙汰なく、あれは悪い夢だったのではないかと思いはじめた頃に、事故は起きた。
火を使った舞台。急な地震。老朽化した劇場。
それは最悪の巡り合わせだった。
事故で落ちてきた照明の下敷きになり、ミハイは大怪我を負った。
火の手が上がった劇場から人々は逃げ去り、ミハイは取り残された。
熱い周囲と裏腹に体はあたたかさを失い、声は掠れ、目がかすみはじめたとき。
急に炎が弱まり、眼前に青白い手が差し伸べられた。
「こんなことで貴方の歌声が失われるのは、とても残念だ。世界にとって筆舌に尽くしがたい損失だ」
霧の向こうから響くような声。悪夢の再来だった。
「時間がない。考える時間はたっぷりと与えたはずだ。すぐに決めなさい」
矜持も、美学も、なんと儚いことだろう。
そのときミハイの頭にあったのは、明日に控えた大舞台のことだった。もう歌えない。
望んで緩やかに老いることすらも、もうできない。
「明けぬ夜を望め、ミハイル」
二度、首を振った。
けれど、三度あらがうことはできなかった。
かくして、彼の“生還”は奇跡として世に受け止められ、名声はさらに高まった。
それが、5年ほど前のこと。
今やミハイル・アントネスクといえば国一番の歌い手で、高低自在の完璧な歌声を保ち続けていた。
けれど、当のミハイの心は沈んでいった。
吸血鬼化はゆっくりと、確実に進行していた。老化が止まり、日光がしみるようになった。鏡にもはっきりと映らない。
日光を浴びたがらないのは美貌を保つためと言い訳はできるが、歳をとらない自分はいずれどのみち、舞台には立てなくなる。そうミハイは悟りはじめた。
そうなれば、血族たちの宴でしか歌えなくなるのだろう。吸血鬼狩りに怯え、彼らの庇護を求め、人を贄として、言うことを聞くのだろう。
それはかつて望んだ美しい生き方とは、程遠いに違いない。
いや。
美しく生きられるはずだったミハイル・アントネスクはあの日に死んだのだ。
死人がいつまでも舞台に居座るべきではない。
そしてミハイは、後に伝説となる大舞台を終えた日の夜を最後にその姿を隠し、輝かしい芸歴に幕を引いた。
花形スターの失踪と時を同じくして、夜明けにひとりの青年が、遠洋の大陸を目指す船に乗った。
舞台には縁遠い水夫たちには、誰に見咎められることもなく、拍子抜けするほどあっさりと、船は母国の港を離れた。
己のいた世界が案外小さな板張りであったのだと知った青年は、小さく微笑んで手を朝日にかざした。
灼けつくような痛みが襲えば、反射的に引っ込める。滅びへの恐怖は、消えていない。
「それでも、夜明けは来るもの」
小さくつぶやいた青年を乗せ、船は海を進んでゆく。
いくつもの昼と夜を越えて、
はるか遠く、流転の地へ。