いかにしてアルフォンソ・バラッカという飛行機乗りができあがり、どのように生きたのか。
ただしこれは、エースパイロットや恋多き貴公子の華々しさとは遠い裏の姿であり、
伝記というには少々痛ましく、感傷的な話だ。
彼の出身はイタリアの小さな港町で、人々は漁業と観光を資源として暮らしを立てていた。
漁師の男とその妻の間に生まれた彼は、父親に愛された記憶を持たなかった。
幼い頃は、いつも漁に出ればしばらく帰ってこない父親を、母と共に待っていた。しかし網の破損や嵐に船を持って行かれるなど、不幸が続き、父は漁を続けることができなくなった。色々な職を転々とした父親は、何かにつけて妻子に暴力を加えるようになった。大人しい母はアルフォンソを庇いはしたが、暴君のいる家から出ようとはしなかった。もとは両家の子女で、駆け落ちのように父と結婚したという母。誰かに頼って生きることしかできないのだろうと思った。父は恐ろしい存在ではあったが、母の内職の金を足せばどうにか暮らすことはできる程度の金を気まぐれに持ち帰ってきた。
「お前らさえいなければ」と口癖のように言う父を見限り、アルフォンソは働きに出るようになった。重苦しい閉塞感に満ちた家から逃げたいという気持ちもあっただろう。年齢を偽ってさまざまな雑務をこなして、いずれ母を連れて家を出るための金を密かに貯めた。
しかし、彼が拠り所にしていたものが崩れる日は、突然にやって来た。
ナイフを手にした父が母の手にナイフを当て、所有物に名を書くように、自分の名を刻もうとしたのだ。
激昂したアルフォンソはナイフを奪い取り、そのまま父を刺した。
父は刺さったナイフとアルフォンソを見て驚き、後ずさり、崩れ落ちた。
やってしまったと焦りながら、同時に、当然の報いだとも思った。むしろ、何故もっと早くこうしなかったのだろうとすら思えた。
しかし、次の瞬間彼は自分がずっと間違えていたことを知る。
母が泣き叫んで父に取り縋り、息子を呪う言葉を吐いたのだ。
母が自分を連れて粗暴な父の元から出ようとしなかったのは、生活のためではなかった。
母は虐げられて尚、父を愛していたからなのだと、息子の自分より粗暴な父を愛していたからなのだと思い知り、少年の希望は脆く崩れて消え去った。
アルフォンソは絶望のまま、自ら通報して警察に出向き、少年院へ送られた。
父は命をとりとめ、周囲の人間から彼の家庭や父親の行いについて口利きがあったため、それほど重い刑にはならなかった。
結果的に家から離れることができたアルフォンソは、両親のことを忘れたいと願った。
少年院を出ると、ずっと世話になっていた飛行機乗りが彼の身元引き受け人を名乗り出た。
養父の元で気力を取り戻したアルフォンソは、ある時養父に直談判して、航空学校への紹介状を書いてもらった。
母と暮らすため、幼い頃からずっと貯めていた金を学費の一部にあて、一心に飛行機乗りを目指した。
そうして飛行士のアルフォンソ・バラッカができた。
軍属として任務に励んだり、飛行機の操縦技術を高めることで、家のことやしがらみが己の身から剥がれ落ちていくような気がした。
幼い頃から、母親へ愛と献身を捧げてきた彼は、その大きな愛情のやり場を失った。
思えば注ぐ愛情は大きく、受け取ってきた愛情は少なかった。
彼は愛することはできても、愛されることにはいつまでも慣れなかった。
だから、航空学校時代から彼は恋多き男だったが、身を固めようとはしなかった。
むしろ、交際している女性が本気になりそうだと感じれば早めに愛想をつかせようとしてみたり、
その女性と相性の良さそうな男とさりげなく引き合わせることさえした。
たまに突き放しても彼を愛そうとする女性がいた。しかし、彼は彼女らに、狂った父を愛していた母の面影が重なって恐怖すら感じた。
もしかしたら目の前の女性は、自分が狂っても傷つきながらそばにいるかもしれないと恐れた。
アルフォンソは、行き場を失った愛情を注ぐ相手を常に求めていながら、
相手からの愛情を受け入れることができない、いびつな人間になっていた。
それでも、空軍として任務に励む間は、そんな自分のいびつなあり方にも向き合わずに済んだ。
彼は己の真っ赤な飛行機を女性の名で呼び、恋人と言ってはばからなかった。
まわりには気の置けない仲間たちもいて、酒を飲んでは語り明かし、女性と遊び、遅い青春を謳歌した。
しかし次第に空戦は激化し、彼の仲間の多くは空で死んでいった。
いつも空に逃げ場と死に場所を求めていたアルフォンソのほうが、生き残ってしまった。
仲間たちは生きて故郷の地面を踏めず、なぜ自分が生き残ったのか。
抜け殻のような日々のなかで、彼は何度も考えた。
そして、32歳になっていたアルフォンソは、航空学校の教官を目指すことを決めた。
彼の指揮していた隊は、生存率が高かった。偶然もあるだろうが、ただの幸運だとも思わない。
彼らの教官が、隊長がもっと優秀であったなら、死なずに済んだ者もいたはずだ。
これは傲慢な考えかもしれないと、自分でもわかっていた。
だが、やれることをやろう。アルフォンソははじめて、使命感のようなものを抱いた。
すべてはこれから、そんな時だった。
彼を死ぬほど愛していると言う女が現れたのは。
彼は彼女のことを知らなかったが、ろくに彼女のことを知る機会も与えられなかった。
深々と突きたてられ、数度ひねられたナイフで、彼女の歪んだ愛の形を否応無く知った。
アルフォンソは一度崩れ落ちたが、恍惚と笑う女を突き飛ばし、フラフラとガレージへ向かった。
途中で何度か背中を切りつけられたが、ナイフを奪い取って投げ捨てると、女は途端にうろたえて、うわごとの様に謝罪の言葉を吐いた。
それも、最早どうでもよかった。
たぶん内臓はぐちゃぐちゃで、この出血ではきっと助からない、と感じていた。
死ぬならば愛する飛行機とともに、空で死にたい、その一心だった。
美しい彼の飛行機は、跳ね馬のエンブレムを煌かせて、永久の自由へ向けて飛び立った。
操縦桿を握り続けられる限り長く、高く飛んで、彼はアドリア海の遥か上空で意識を失った。
身投げをするように一直線に落ちていった飛行機は海面に叩きつけられ、
部品を散らしながら、暗く冷たい海底へと沈んでいった。
こうして彼は誰とも確かな約束を交わすことなく海に沈み、その生涯を終えた。
はずだったのだが、何故か気づいたら見知らぬ場所にいて、髪は真っ白になっていた。
だから、これはやり直しを許された男の、もうひとつの物語となるだろう。
飛行機のないこの場所で、彼はどんな道を選ぶのだろう。
まあ人間、そう簡単には変わらないのか、
今日もどこかで空々しい愛を語り、報われない恋ばかり求めているようだ。