公爵家の悲劇と仮面舞踏会

100年よりもっと前、ある西の大陸に、立派な公爵家がありました。
立派なお屋敷に、たくさんの使用人。
父親の早逝により若くして爵位を継いだ、美しく奔放な青年公爵ファビアンと、その母親セレニア、彼らのいとこや傍系の親類が住んでいました。

とても仲の良い母子で、使用人たちも彼らを慕っていました。

お屋敷では何か祝い事があるたび、舞踏会を催しては多くの客人を招いていました。
月の美しい時期には仮面を被り、使用人も公爵も身分を気にせず踊ったその夜は、まさに夢のような時間でした。

ところがある日、森から帰ってきた彼は、動くしかばねとなっていました。
セレニアは息子の死を否定し、怪我をしただけと偽って、信用している限られた使用人以外にその死を隠し、動くしかばねの面倒を見続けました。

謎めいた黒魔術に傾倒するようになった彼女は、死化粧師を呼んで息子の折れ曲がった手足を元に戻し、防腐剤を詰めさせ、死体の腐敗を遅らせました。
一部の使用人や親類は、彼女を魔女と噂するようになり、屋敷を離れていきました。

しかばねのファビアンは、以前より感情の起伏が激しくワガママになりましたが、まるで己の死に気づいていないように明るく振る舞い、生前のように楽しく暮らしました……

けれど、そんな隠しごとが長続きするわけもありませんでした。
ファビアンの腐臭は隠しきれなくなり、セレニアはどんどんやつれていくなか、終わりは見えていました。

使用人の誰かの密告があったのでしょう。
噂を聞きつけた神父が屋敷に訪ねてきたのです。

聖水を振りかけられたファビアンは悲鳴をあげ、その崩れかけた体からは何かが飛び出し、暗い森へと逃げ去りました。
セレニアは嘆き悲しみ狂い、誰が息子を売ったのかと使用人たちに問いました。

公爵のことを好きな使用人も、それほど好きではない使用人もいましたが、
誰が密告したにしろ、誰もが、こうなるしかなかったと思っていました。

名乗り出たのは、セレニアが若い頃から屋敷に仕えていた、古株の料理長でした。
幼くして父親を亡くしたファビアンが赤子の頃から成長を見守ってきた、
誰よりかれら母子を知り、想っているはずの人です。

彼は、破滅に向かっていくあなたを見ていられませんでしたと、泣きながら謝りました。
失望し、怒り狂い、我を失い、料理長を罰せよと叫んだセレニアに、
従う使用人は誰もいませんでした。

セレニアは使用人たちを呪う言葉を吐くと、その日から部屋に篭り、ろくに人前に現れなくなりました。

呪いが本当にあったのか、確かめる術はもうありませんが、
屋敷に残っていた使用人たちは、次々に病に倒れました。
症状は、当時その地域で流行りはじめていた伝染病でしたが、ろくに治療法もなく、
まことしやかに「魔女の呪い」と呼ばれていました。

その奇病は瞬く間に広がり、絢爛だった屋敷は一転、死に包まれました。
生き残った者たちは屋敷から遠くへ逃げ、呪いを恐れて二度と戻りませんでした。

最期まで墓を掘り、婦人や仲間たちの世話をしていた執事長が倒れた朝、
ひとり残ったセレニアはふらふらと森へ入って行きました。

+++++++++++++++++

それから何年が過ぎたでしょう。
使用人たちの魂は無念のまま打ち捨てられた屋敷に染みつき、形を持たない怨念の塊となっていました。
しかしある時、森から揺れる火の玉がやってきて、公爵の声で彼らに呼びかけました。
使用人たちの魂は途端に自分が誰だったかを思い出し、火の玉のもとへ参じました。

火の玉は 言いました。
もう一度、舞踏会を開こう、と。

それから毎夜、火の玉の求めに応じて、彼らはかつてのようなパーティーを開こうとしました。
けれど、かつての栄華には程遠く、一度も満足することはできませんでした。
美食を味わうことも、ダンス相手の息遣いや体温を感じることも、ときめきに心臓をふるわせることも、きっと、生きた人間にしかできないからだと。

きっとかつてのような喜びに満たされれば、天へ召されるのだと誰もが信じていました。
形をうしなったものは、考える力もなく、最も楽しかった頃の記憶にとらわれるものでした。

そんなある日、お屋敷に魔法使いが訪れました。
魔法使いは、屋敷の幽霊をすべて追い出すようにと依頼を受けてきた者でした。
勿論追い出されるのは御免だと、屋敷の幽霊たちはおそれ惑い、怒りました。

魔法使いは、不思議な魔法で一冊の本に彼らを封じました。
しかし、強力な封印には解く方法も必ずあるのが、魔法のルールでした。

その方法とは、本の持ち主が十夜にわたり怪談話をし、決められた数、ロウソクを吹き消すこと。
回りくどい方法ですが、決して不可能ではありません。
強い力を持つ公爵のゴーストは、本を手に取った者の精神に干渉し、100年の間、何度もこの儀式を試みました。けれど、たいてい10夜も怪談話を続けることはできず、失敗に終わりました。

そして、ちょうど100年が過ぎたある日。
とある少年と、その仲間たちにより儀式は完遂されたのです。

だから、ゴーストたちはもう一度……
今度は生きているあたたかい体を借りて、パーティーをすることにしたのです。

月光の下で君を待つ

命の気配のない、この大きな広間では、ゆっくりと時が流れるように感じられる。
雪は音を吸い込むと言うが、確かに痛いほど静かで、かつての栄華や賑わいが幻のようだ。

柱時計の鐘の音が12時を告げる。
広間を音もなく滑るように歩くゴーストは、白く染まることもない息を吐いて、上を見上げた。
狼月が真上に昇っている。青白く透けた男の体は、わずかに色を取り戻す。

灰色の髪に、青みがかった緑の目。神経質に吊り上がった目元と真っ直ぐに伸びた背筋が、彼の生真面目さ、完璧主義をあらわしているようだ。

男は、アンジェロ・アダムスキー。かつてこの屋敷で執事長を務めていた。
天使(アンジェロ)という名を嫌った彼は、皆からアダムと呼ばれていた。

呪いとも噂された流行病により、屋敷の栄華は終焉を迎えた。仕えていた主人の血族も、使用人たちも、あるものは倒れ、あるものは逃げ出し、死が屋敷を覆っていく中で、彼は最後まで、倒れた者や主人の世話をし、遂には墓掘りも訪れなくなった屋敷で、墓を掘り続けていた。

たった一人で屋敷の中を歩くと、最後の日々が思い出された。
思えばあの頃の自分は頭に霞がかかったように、油をさしていない機械人形のように、鈍重で感情を失っていた。

同僚を1人埋めるごとに、世界から色が失われていった。
まるで悪い夢でも見ているように、己を失っていき……最後には、病に伏した同僚を見るとすぐに、「墓穴を掘らねば」と思うようになっていた。

そんな中でも、「彼」の死はよく覚えている。何しろ、最後だったのだ。

アダムより幾らか年下の執事で、物腰柔らかく、老若男女から好かれる人柄の持ち主だった。

最後に残ったのは自分と、彼と、婦人だけ。

「彼」の亡骸を見つけたとき、アダムは自分がどういう感情を抱いたかを覚えていない。折れないようにと、自らの感情を殺し続けた日々だった。

けれど、心などとっくの昔に折れていたのだろう。自分こそが、生ける屍だった。皆を弔うためだけに無理やり冷たい頭と体を動かしていた。
最後には弔う気持ちすら無くして、「彼」の隣に、己のための墓穴を掘った。

彼の亡骸が、微笑んでいたのか、泣いていたのかは思い出せないが、美しいままに逝ったことは覚えている。

(……遺書の内容はどんなものだっただろうか。)

アダムは、最後の舞踏会の夜から、己の存在が徐々に強まっていることを感じていた。「未練」と言い換えてもいい。

聖誕祭の夜、「彼」に手を握られてからは、余計に己の輪郭がはっきりとしたように思う。
あの時、伝わってきた心。

十数年を共に過ごした筈なのに、こんなにも知らないことがあったのかと驚き、もっと知りたいと求める己の心にこそ真に戸惑った。

それが伝わることを恥じて手を離してしまったが、体を失った身でこれ以上何を失うことがあるだろう。
どのみち100年の想いに、釣り合うわけがないのだ。

幽霊は自問自答する。

命を失ってはじめて、心に熱が灯ることなどあって良いのだろうか。
空っぽの抜け殻で、今更何を満たせというのだろうか。
後も先もない、行き止まりの存在だ。「彼」もまた。

けれどあの夜に己の心を知った。
彼の献身に比べれば、自分の想いなど、おそらくまだ幼稚なものだろう。生前ならば己もまた押し込めてしまったかもしれない。
今や隔てる文化も、立場も対面も無く、ただ心があるだけだ。

……そう、同じ行き止まりならば。 

幽霊は広間の中心にたたずみ、ダンスの相手を待った。

++++++++++++

何かに誘われるように大広間に足を踏み入れた金髪の執事は、天窓から差し込む明るい月の光を全身に受けるその人を真っ先に見つけただろう。
青白く透けた姿ではなく、生前の色をほんのり帯びたその身体と表情に息を飲む。
1秒だって忘れたことはなかった色だ。

一歩、一歩、ゆっくりと光の真ん中にいる彼の元へ近づいていく。足音はしない。
けれど、彼の耳にだけは、馴染みのある靴底の音が聞こえたかもしれない。
それくらい、生きている時と何も変わらない様子で、自然に寄っていく。

「……大きな、月が……昇っていますね。
どうも気持ちが落ち着かないと思っていましたが、……月に呼ばれていたのでしょうか。

アダム……あなたも?」

「……ああ、フローレンス。
今夜は何か、思い出すことが多い。静か過ぎるのかもしれないな。
だが、呼ばれたと思ったのなら……きっと月ではなく、私だろう。」

アダムは、待ち人へと視線を向ける。

ルカ・C・フローレンス。
最後の日々を過ごし…………そして毒をあおり、自ら命を絶った同僚。
豊かなやわらかい金色の髪に、アメジストの瞳。
穏やかなやさしい表情は幽霊になっても変わらないらしい。

幽霊となった今も生前と変わらないその姿を見れば、彼をこの手で弔ったことなど嘘のようだった。

「あなたが、……僕を?」

ルカは驚いたように息を詰める。けれど、あくまでいつものようにと努めて、穏やかな笑みを作った。側に立ったまま、言葉を待ちながら。

「月を見ながら、あの夜お前に言われたことを考えていた。」

アダムはそう言って一歩を踏み出し、距離を縮めた。

「あの夜の……、あれ、ですよね。もう忘れてくださっても、良いのに。」

「馬鹿を言うな、忘れられるものか。」

アダムは小さくため息を吐いた。

あの秋の夜、屋敷の幽霊たちが開いた、最後の舞踏会。
その最後に、アダムはルカとダンスを踊り……彼がずっと胸に秘めていた思慕を告げられた。
それはアダムにとって、まったく思いもよらないことだった。動揺して問い質そうとするアダムからルカは逃げ回り、有耶無耶になったまま。
結局今に至るまで、その話はできていない。

アダムの視線を受けたルカはしばし沈黙し、そして再び唇を開いた。

「…………何を考えていてくださったのでしょうか。
聞いても?」

そう問いかける声音は静かに。けれど、少し臆病な、どこか後ろめたそうな色を帯びている。

憂いを帯びた青年は心中で呟く。

(…………生真面目なあなたはいい加減なことなんて、できないでしょうから。もしかしたら、……この世界に引き止めてしまうのではないか、と、それだけは危惧していました。……恨まれていても、仕方ないかな。)

ルカの心中に呼応するように、アダムの姿もまた、時折ろうそくの火のように儚くゆらめいた。

「答えなど求めていないのはわかっている。私もあの時は、答えを持っていなかった。……私はな、恋や愛に疎い朴念仁だ。お前が何故私にそんな想いを向けたのかも……全く見当がつかなかった。」

長い言葉の先を静かに待たれながら、己よりくっきりとした輪郭を見据える。

「それでもお前に触れられた時に……お前の心が少しだけ私に流れて来た。
私はそれを……美しいと思ったんだよ、ルカ。
同時に、己の空虚さを……お前の心をもっと覗きたいと……浅ましい望みを抱いたことを恥じた。」

男は自嘲するように、わずかに微笑んだ。

「アダム………。」

思わず洩れたような呼びかけ。もう、彼の名を呼べる者はこの世に片手ほどもいない。その中でも、最も耳慣れた声。
見習いとして公爵家に仕えはじめた子供の頃からの仲なのに、知らないことが多過ぎる。

目線を一度外したあと、アダムは手袋を外し、まっすぐ目の前の相手を見つめ、手を差し出した

「だが……お前にならば、私の知らぬ私の心を明け渡しても構わないと、覚悟した。

私はもっとお前の心を知りたい。
触れて、確かめたい。」

これがただの欲なのか、恋というものなのか……少なくとも私は、お前が考えるほど崇高な人間では無い。それがわかれば、お前の心も変わってしまうかもしれない。
……美しいままに終わらせたいのなら、断って構わないが。

もう一度、私と踊ってくれないか、ルカ。」

「…………。」

ルカが言葉を発するまでのわずかな静寂が、アダムには永遠にも感じられた。

「僕はあの夜、あなたに想いを伝える時、
同時に恨まれることを覚悟していました。
想いは、言葉にした時点で形となり、伝えた時点で……祝福にも、呪いにもなってしまう。

僕はあの夜、あなたに呪いをかけてしまったのかもしれません。

…………僕は。
僕はあなたに、もっと深い呪いをかけてしまうかもしれませんよ。
それでも構わないと仰ってくださるなら、

…………断る理由がどこにありましょう。」

ルカは同じように手袋を外す。
すらりと細く長い指が、差し出した手にゆっくりと重ねられた。

幽霊は体温は持たない。
けれど、アダムには、失ったはずのからだの熱をそこに感じたように思われた。
それはきっとこの執事の、青年の、心の熱だろう。

「楽隊がいないのは少し寂しいですけれど。
でも、目を閉じたら……聞こえてくる気がしますね。
あなたとこの場所で何度も何度も聞いていた音楽が、きっと魂に刻まれているんでしょう。」

明るい月の光は、二人を照らす荘厳な照明に。
手を取って、身体を寄せ合って。

「……では、ワルツを。
曲は……月夜の晩餐会で演奏されていたものにしよう。」

手を重ね、冷たい指先から伝わってきた想いの熱に、アダムの瞳の色も鮮やかさを増す。

その熱を手繰り寄せようとにわかに波立ち、目の前の青年に向けて静かに打ち寄せ始める心を、もう隠すことは無い。

彼の双眸に宿るみどり色を美しいと、ルカは思う。月の光のおかげだろうか。重ねた掌の内側にこもる熱を逃さぬようにと握り返せば、またそのみどり色は鮮やかに揺れたような気がした。

こんなに近くで、その瞳を覗き見たことがあっただろうか。
意識を吸い込まれる。

ワルツを、というアダムの声には、ぼんやりとした返事が返ってきた。

アダムは大きく胸を開くようにリードの姿勢をとって、すうと息を深く吸い、ゆっくりと足を踏み出した。

記憶のレコードの針が魂に刻まれた溝をなぞり、懐かしい曲が、二人の内に響きだす。

ルカの身体も、自然と柔らかなステップを踏み始めた。

「……お前が、私に呪いをかけたと言うのなら……。」

ゆったりとリズムに身をまかせながら、アダムは思いつきのように囁いた。

「……もしも私が、お前を恨む、と。
許さないと言ったら、どうするつもりだ。」

「もしあなたが僕を恨むと……
許さないと仰るなら。
僕はあなたの気が晴れるまで、その償いをします。僕にできることなら、なんでも。恨み言も聞きます。身体を刻まれてもいい。

…………今度は……。
あなたのどんな表情も、姿も、受け止めて……僕も苦しみ抜きたい。」

心中に留めていた泥を押し出すように、ルカはぽつぽつとそう呟いた。
優しいリードの中に、真っ直ぐな熱情を感じながら。
触れ合う指先から流れ込んでくるそれをうまく言葉に表すことはできないが、彼の魂の奥深くに触れているのだろうという確信だけはあった。

押し出した想いは、確かに本心だ。

――さっきの彼の言葉に、生前であればきっと抱くことのなかった一瞬の高揚があったことを自覚している。
だからこそそれに比例するように、あの日の――自ら命を絶った夜明けの――罪の意識も、内側で膨れ上がっていた。

アダムの問いへの答えには、その意識も僅かながらに滲んでいる。

きっとこのくすんだ気持ちも、伝わっているだろう。そう思うと、澄んだ翠玉の瞳を直視できなくなり、ルカは無意識に視線を右下に落としてしまった。

「……償いなど、必要ない。」

アダムは静かに、しかしはっきりとそう言う。

「感謝こそすれ、私はお前を、恨んでなどいない。
 責める気もない。今も、昔もそうだ。」

そう答えながらも、償うと、なんでもする、受け止めるという言葉に、喜びが湧き上がるのを隠すことはできない。
それが何を意味するのか、アダムにはわからない。けれど、伝わってきた罪悪感は、己にも覚えのあるもので……だからこそルカの望みにも気付いた。

「……お前は、私に裁かれたいのか。
それなら、ちゃんと私を見なさい。」

ぐっと上体を傾けるようにしてルカの体を支え、その目を覗き込む。

「っ……。」

そうだ。
ルカの、恨まれる覚悟の正体は、同時に罪悪感と後悔から逃れるための希望でもあった。
貴方から罰されれば、その罪の意識が少しは軽くなるのでは、と。

言い当てられ、ルカは言葉を詰めた。
覗き込んでくる美しいみどり色の前では、そんな動揺もやはり暴かれていくような感覚になる。
もう一度捕われて、目が離せなくなる。

「一つ、思い出したことがある。」

アダムはそっと姿勢を元に戻すと、独り言のようにぽつりと呟いた。

「お前を葬ったとき……確かに、私はお前を羨んだ。だが、同時に安堵した。お前の苦しむ姿を見ずに済んだことを。」

記憶の糸をたぐりながら、鈍った感情の奥にあった思いを吐露していく。

「……私は愚かだった。羨むなどもってのほか、そして安堵も間違いだった。お前はもう十分に苦しんでいた。

私は弱く、とうに正気を失っていたのに、お前は……お前のまま、あの日々を過ごしていたのだろう。
生きた屍のような私と、死に包まれた屋敷で。」

それは一体、どのような苦痛だったのだろう。思い慕う相手は既に生き人形のように心が鈍り、その献身に気付くこともない中で、ルカは自分を失わなかった。
引き際も己で決めて、最期まで彼のままだった。

「正気を失っても、まだ立っていられたのは、お前が変わらず傍にいたお陰なのだろう。私はずっとお前に救われていたのに、それに気づくことができなかった……赦しを乞うのは私のほうだ、ルカ。」

それは、まぎれもなく懺悔だった。

あの日々の、愛した人の胸中を前にルカは動けないままいた。
思いもよらなかった吐露の、最後の一言まで待ち、それから緩く頭を横に振る。

「…………アダム。
いいえ、苦しかったけれど、辛かったけれどそれでも……それでも僕が僕のままあの日々を過ごしていられたのは、あなたがいたからですよ。
死が屋敷を包んでいたとしても、あなたが……いたから、僕は。

……救われていたのは僕です。
だから、そんな顔はしないで。」

眉尻を下げて泣き出しそうな顔で微笑んで、ルカは罪人のように項垂れる男にそう告げた。
しかし、アダムは首を振る。

「いや、違う、私にお前の慕うような崇高さは無いんだ。
今、お前の傍にいたいと願うこの心は……贖罪とはほど遠い我欲だ。お前が私のために苦しんだことにさえ、私は喜びを。」

執事長は葛藤のにじむ声色で、心の澱を吐き出すように、横を向いた。

「とても、お前のそれのように美しいものとは思えない……ルカ、教えてくれ。
これは、恋なのか?」

再びルカに向き直ったその表情は、いつも毅然としている男らしくもない、祝福を乞う迷い子のようだった。
恥じるように細められ、けれど熱情のこもった瞳が、ただ一人だけを求めてゆらめく。

「…………僕はあなたのその問いに、自信を持って答えることはできません。

でも。
あなたが僕の傍にいたいと……願ってくださっているのなら、それは……。

それは、僕と一緒です。
僕もあなたの傍にいたい。
そう願っています……ずっと、ずっと。願ってきました。

そして僕はこの想いを、あなたへの恋なのだと認めています。」

そう語りかける声音は、先ほどまでの動揺を感じさせぬ凛としたもの。
アメジストの瞳が、月明かりに照らされる翠のビードロに応えようと縋り付いた。

望んではいけない。求めてはいけない。気づかれてはいけない。そう自分を律して蓋をしたものがあった。
それらが今、箱の中でにわかに色めき立っている。
とうの昔に身体を失くした魂だけの存在でありながら、行き止まりの道でありながら、……ここにきて希望を抱くなど。

あってはならないと思いながらも、それでも、100年越しに触れた愛する人の魂の奥底に、ほんの少し、期待を寄せてしまう己を感じた。

きっとこれらも決して美しいものではない。――アダムのその戸惑いを、嬉しいと感じてしまうから。

繋いだ手から、潤んだ紫の目からみどりの双眸へと、想いが高潮のように押し寄せる。
アダムはそれに押し流されることなく、心に灯った火をもってその想いを、縋る視線を受け止める。

アダムはゆっくりと、まるで生まれて初めてまぶたを上げたかのように、長いまばたきを2度、3度して。
そして、想いの名を知った。

「ああ、ルカ。十分だ。
私にも、わかった。 」

胸の内に流れる音楽は、最後に長い一音を残して止まる。

強く腕を引いた瞬間、音もなく欲するものは腕の中に収まり、再びすべての時が凍ったような静寂が訪れる。

しかし、そのしずけさはもう、冷たいものではなかった。

「ルカ、私は今や恋を知ってしまった。
……愛おしいと、想う心を。
お前が教えてくれた。
だから、天国でも地獄でも、お前のいる場所に私はいよう。
行き止まりでも構わない。
この魂が擦り切れるまで……傍らにいさせてくれ。」

心が燃えているからだろうか、不思議と寒さは気にならない。
ルカの柔らかい金の髪を撫でる手の感覚はなくとも、代わりに魂が溶け合っているように感じられた。

アダムの中にも確かに萌芽した、相手を求め欲するだけでなく、己の全てを捧げたいという想い。
幸あれという祈り。
そして剥き身の自我への不安が、混ざり合い溶け出してゆく。

「……っ……アダム……。」

詰まりがちに呼ぶ声は、ルカのものだ。

「本当に、いいのですか。
まだ……僕は……あなたの側にいてもいいのですか。

あなたも、いてくださるのですか。」

抱き寄せる腕の中に収まりながら、止んだ音楽の余韻を遠くに聴きながら、少し背の高いその人をルカは見上げた。

魂と魂が溶け合った一つのシルエットを
ぼんやりとその足元に形作るかのように月明かりが降り注いでいる。

身体はなくとも心は確かにそこに存在している。

撫でられる感覚が心地よかった。
触れ合う場所から疑いようのない心の熱が流れ込んでくる。明確な言葉では表せない、熱情。
行き止まりの命だ。
もう取り繕う必要も偽る意味もないと知っているから

蓋をしていた100年分の思慕が
真珠のような滴となって
ぽろぽろと、白い頬の上を伝い落ちていった。

落ちた滴が床を濡らすことはない。
雪のようにふんわりと溶けて、消えていく。けれど、もしアダムがそれに触れるなら。
きっと、滴はその魂に溶け込んでゆく。
嬉しさと、切なさと、焦がれる想いと、安堵が。今度こそ、終わりの終わりまで共に居させて欲しいと願う想いが、アダムの魂を満たす。

「……アダム。
このまま少しだけ、聞いて下さいますか。

僕は……あなたへのこの想いを自覚した時に、けして伝えてはならないと己を戒めました。
公爵家の使用人同士の、なんて、スキャンダルもいいところですし。何より僕は、あなたとの日々が変わってしまうことを……恐れました。
僕は、臆病だったんです。

でも……あのように、病が流行って……あんなことになってしまって。
死の間際に、やっぱり何としても伝えておいたらよかったと酷く後悔をしました。
……その後悔と一緒に、無に還るはずでした。

それがどうしてか、どんな因果だったのか……僕たちは身体を失った今でも、魂だけの存在としてここにいる。

あなたは僕の抱いてきた想いを美しいと、先程言ってくださいましたね。
でも、そんなことはないんです。

……あなたの言葉が、嬉しかった自分がいます。
僕の死を……覚えていてくださったことに。
嬉しくなってしまった。本当はこんなこと、考えてはいけないのに。
皆の苦しみを、無念を……忘れてはいけないのに。
あなたがこうして再び僕の隣にいてくれることが……、

どうしようもなく、嬉しい。」

「そうか。」

長い長い告白を黙って聞き、アダムはそう短く答える。
腕の中の魂が脆いガラスか何かで出来ているような錯覚をして、おそるおそる腕を緩め、ルカへ視線を注いだ。

「……わかっているさ。だが、それでも……美しいと思った。
いじらしい、とでも言うのだろうな。」

涙のこぼれ落ちる頰に触れて顔を上げさせ、額同士をこつりとくっつけた。
いとおしい、という心の震えがルカにも伝わるだろうか。
言葉を重ねずとも、心が伝わることは困ったものだが、今はそれがありがたいとアダムは感謝した。ついでに、己の淡い色合いにも。
もしも血が通っていたならきっと、恥じらいで耳が赤く染まっていただろうから。

「……後悔も、自責も、あって構わない。それぐらい受け止められる度量が無くては、公爵家の執事長など務まらないからな。」

わずかに口角を上げ、目元をゆるませたその表情は、従僕としての作り笑顔ではない、アダム自身の微笑みだ。

「残された時間、私はお前と共にいる。懺悔も恨み言も、好きなだけ聞こう。
……だから、それ以外のことも、お前の口から聞かせなさい。
私はお前の手に惑い、想いに、眼差しに心を打たれた。
だが、何故お前が私のことを想うようになったのかを知らない。」

あの夜に聞こうとして聞けなかったことを、今度こそ言わせてやろうとアダムは心に決めているようだった。
知らないことだらけの同僚を、今度は恋人として知っていこうと。

「ああ、多少長くなっても構わないぞ。
幸い、我々は眠らなくとも困らないのだから……。」

今度は逃げ出せないように、しっかりとその魂をつかまえて、堅物執事は大真面目に言った。

「えっ……その、……それは。
アダム、今はその話は……ね?」

今度こそ言い逃れも、逃走も出来なさそうな話題を慌てて逸らそうと目を丸くする。
それでも、その大きな背中に回す手の力は緩めなかった。ぴったりと胸を、腕を、魂をくっつけて、離れない。だから、きっと心は伝わってしまうだろう。

「あなたがふとしたときに垣間見せる、そういう微笑みに、いつしか心を奪われていたのだ」と。

長い長い一夜を、執事はもう勘弁してほしいと言いながら照れと半泣きになった顔で過ごすことになるのだろう。
観念して告白をひとつ零すたびに、ないはずの心臓が少し駆け足に脈打つ感覚を覚える。
それを、愛しい人と共有する。
嬉しくて、いとおしくて、終わりの先の道であるというのにとても幸せな想いで満たされていた。

今度はこちらから少し背伸びをして、額同士を付けた。
触れ合う額から感じる熱は、たましいの持つ優しい炎。

紫の瞳を伏せて、そうっと唇を寄せた。

(今度はもう手を離さない。
 今度はもう、目を逸らさない。)

満月に見下ろされながら、行き止まりの恋は満ちていく。
“あの日”を最後に白紙となっていた日記帳へ、ふたたび新たな一節が、綴られていく――。

重なった淡い横顔のシルエットが離れたあとも、腕の中のあわれな恋人が1から100までを洗いざらい話すまで、尋問めいた長い夜は続いただろう。

或る歌手の死

 夜明けを望みます。
 滅びを望みます。

 そう言える者であれたらと、
 望んでいました。

ミハイル・アントネスクは、人間の歌手だった。
少なくとも、5年ほど前は。

さる西の大陸の一国では舞台芸術の文化が豊かで、辺境地主の庶子であった彼は、少年の頃から美しい歌声と美貌に秀で、若くして歌劇舞台に欠かせない存在となっていた。

ある日、彼の後援者(パトロン)になりたいと、貴賓席の常連客が声をかけてきた。
彼の歌声にいたく感じ入り、力になりたい。
支援を惜しまないから、我が館にきて、晩餐の席でも歌ってほしい、と。

花形とはいえ年若く、劇場との付き合いもあるミハイはこの上客の誘いを無碍に断れなかった。

呼ばれた館は、どの窓にも分厚いカーテンがついていた。代わりに燭台が多く、煤払いの使用人が忙しくしていた。
廊下に並ぶ調度品はすべて歴史的に貴重なものであり、日光による劣化を避けるため、このようにしてあるのだと。
館の主人は余程、骨董品に愛着のある人物らしい、と思いつつ、ミハイは案内されるままに館の奥へと進んだ。

晩餐の席で彼の歌を聴いたあと、館の主人は奇妙な話をはじめた。
「本当に素晴らしい。磨き上げられた天上の歌声だ」
「だからこそ、惜しい。歌声も美貌も、いずれ衰えるもの」
「貴方の全盛期はまさに今、このときです。ここより先はない」
「その忌まわしい運命を変えたいと思うことは?」

その声は霧の奥から聞こえてくるようで、甘美に誘う響きがあった。

ミハイは慎重かつ、丁寧に答えた。

「価値……美しさにも種類があります。
変わらない美しさと、変わる美しさ。
時の流れに従って老いるのならば、それも自然の営みの一部だと思っています。
それに、全盛期とは、人に決められるものではありません。幼い頃に持っていた無垢な輝きを、いまの私は失いました。それでも、別のものを得て満ち足りています。
割れた古代の器にも歴史という価値があるように、私は老いてこそ得られる価値もあると思うのです」

落ち着いた気丈な言葉とは裏腹に、ミハイの顔は蒼白になっていた。
館の主人の口元に覗く鋭利な牙や月の光に怪しく光る目を見て、気づいてしまったのだ。
ここは吸血鬼の館だ、と。
 
自分は贄として呼ばれたのかもしれない。
悲壮な覚悟を抱き始めたミハイに、それよりももっと青白い顔の主人は微笑んで告げた。

「貴方はまだ老いや死に面したことが無いから、わからないのでしょう。だが、私は知っている。
体は衰え、声は掠れ、目が濁ったそのときに、昔を甘美に思い出さぬ者は無いのだと。
貴方が一言、ただ一言、明けぬ夜を望むと告げてくれたなら、喜んで我が血族に迎え入れましょう」

 ミハイは震えながらも首を振った。

「失われるからこそ、尊いものもあるとは思いませんか。今しかないからこそ、私はこの命すべてで歌うことができるのだと」

 館の主人は、慈しむような、しかしある種の嘲りをはらんだ瞳で、彼を見返す。

「いいえ、貴方はまだ自分に多くの時間があると思い込んでいる。それは、若さゆえの読み誤りだ。命すべてを賭した歌声など、明日のある者には出せぬものです。
けれど貴方は賢く礼儀正しく、歴史に敬意を持つ者だ。
ならばこそ、貴方の何倍も生きている私の言葉を聞き入れなさい。失ってからでは遅いのだから」

「考えさせていただけますか。私の如き若輩の身には、あまりに壮大なお話です」

「ああ、どうぞじっくり考えてください。
でも、あまり時間をかけすぎないように。
我々にはいくらでも時間がありますが、貴方は、そうではないのだから」

屋敷の主人は快くミハイを屋敷から送り出し、ミハイは生きて舞台へと帰ることができた。
約束通り、館の主人に言われたことを、ミハイは何度も考えはした。けれど、何度考えても、答えは否、だった。

ミハイにとっての美しさは生き方や考え方にも及び、必ずしも外形にとらわれるものではない。
元からそうであるならば仕方のないことかもしれないが、生き物の境を超えた永遠の若さのために他人の血を啜るのは、ミハイにとっては決して美しい在り方とは思えなかった。

それから1年程は音沙汰なく、あれは悪い夢だったのではないかと思いはじめた頃に、事故は起きた。

火を使った舞台。急な地震。老朽化した劇場。
それは最悪の巡り合わせだった。
事故で落ちてきた照明の下敷きになり、ミハイは大怪我を負った。
火の手が上がった劇場から人々は逃げ去り、ミハイは取り残された。

熱い周囲と裏腹に体はあたたかさを失い、声は掠れ、目がかすみはじめたとき。
急に炎が弱まり、眼前に青白い手が差し伸べられた。

「こんなことで貴方の歌声が失われるのは、とても残念だ。世界にとって筆舌に尽くしがたい損失だ」

 霧の向こうから響くような声。悪夢の再来だった。

「時間がない。考える時間はたっぷりと与えたはずだ。すぐに決めなさい」

 矜持も、美学も、なんと儚いことだろう。
 そのときミハイの頭にあったのは、明日に控えた大舞台のことだった。もう歌えない。
 望んで緩やかに老いることすらも、もうできない。

「明けぬ夜を望め、ミハイル」

二度、首を振った。
けれど、三度あらがうことはできなかった。

かくして、彼の“生還”は奇跡として世に受け止められ、名声はさらに高まった。
それが、5年ほど前のこと。

今やミハイル・アントネスクといえば国一番の歌い手で、高低自在の完璧な歌声を保ち続けていた。

けれど、当のミハイの心は沈んでいった。
吸血鬼化はゆっくりと、確実に進行していた。老化が止まり、日光がしみるようになった。鏡にもはっきりと映らない。
日光を浴びたがらないのは美貌を保つためと言い訳はできるが、歳をとらない自分はいずれどのみち、舞台には立てなくなる。そうミハイは悟りはじめた。
そうなれば、血族たちの宴でしか歌えなくなるのだろう。吸血鬼狩りに怯え、彼らの庇護を求め、人を贄として、言うことを聞くのだろう。
それはかつて望んだ美しい生き方とは、程遠いに違いない。
いや。
美しく生きられるはずだったミハイル・アントネスクはあの日に死んだのだ。
死人がいつまでも舞台に居座るべきではない。

そしてミハイは、後に伝説となる大舞台を終えた日の夜を最後にその姿を隠し、輝かしい芸歴に幕を引いた。

花形スターの失踪と時を同じくして、夜明けにひとりの青年が、遠洋の大陸を目指す船に乗った。

舞台には縁遠い水夫たちには、誰に見咎められることもなく、拍子抜けするほどあっさりと、船は母国の港を離れた。

己のいた世界が案外小さな板張りであったのだと知った青年は、小さく微笑んで手を朝日にかざした。

灼けつくような痛みが襲えば、反射的に引っ込める。滅びへの恐怖は、消えていない。

「それでも、夜明けは来るもの」

小さくつぶやいた青年を乗せ、船は海を進んでゆく。

いくつもの昼と夜を越えて、
はるか遠く、流転の地へ。

ガー

でっかいお魚アイドル

GAR

“ 喋れるように見えます? ”

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▷ヒーラー・予備タンク
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年齢性別不詳の不条理マスコット。見た目はややコミカルにデフォルメされた、そこそこ大きなアリゲーターガー。2鰭歩行時70cmで、小児ほどの大きさ。
かなり流暢に喋れる。ルー語、ネット用語、体言止めを多用する。シュールギャグ世界線に生きているし、第四の壁を超えている。

アイドル気取りで己のグッズを展開したり、キャバレーで働いてみたり、マッチを売ってみたり、寿司になってみたり……とにかく行動が突拍子もない。言動や行動、生態を深く掘り下げようとしても、納得のいく説明は得られないだろう。


おいしいものとやさしいひとが好き
乾燥、お酒、喧嘩、シリアスは苦手

アリゲーターガーとは

ミシシッピー川流域〜汽水域まで生息するガー目の肉食魚 。
肺のような浮き袋がある古代魚で、成長すると2m以上にもなる。記録上では3mを超える個体もおり、五十年を超える寿命を持つ。
ワニに似た顔つきで、口の中には鋭い歯が並ぶ。鎧のように硬いウロコの構造はガノイン鱗と呼ばれ、並の刃物では刃が立たない。串に刺して焼いて食べる地域もあるが、身はパサパサの七面鳥にたとえられ、単体ではそれほど美味しい魚とは言えないようだ。
とある島国では無責任な放流の末特定外来生物に指定されている。

来歴

ルセルトリにて、アルフォンソが「ガーディアン」のスキルを発動しようとした際、アプリがフリーズ。画面が「アルフォンソのガー」で停止したことにより、手違いで召喚された。

当初はあまりかわいくなかった

は? ガーはいつでも可愛いが?

ギャラリー

指輪の魔神の物語

0.

おれは、魔神ナールが灯した火から生まれた魔人だった。眷属、という扱いになるんだと思う。
生まれたときからナールの家来として、やることは色々あった。魔宮づくりも、手伝った。
それが終われば、ナールの神殿の警備の仕事があった。その時のおれには自分ってものがあまりなくて、ただぼんやり何十年、村の人たちの様子を眺めてた。
ナールは気まぐれに、人間にいいこともすれば、悪いこともした。
人間はナールの機嫌をとるために貢物をして、おれたちを見るといつも地べたに頭をつけて、平伏した。
おれははじめ、人間のことにさして興味がなかった。
村にも、豊かなのと、貧しいのがいた。豊かなのは丸々太って、貧しいのは小枝みたいで、いつも食べ物を探していた。
豊かなやつは、おれにも貢ぎ物をしようとした。籠いっぱいの果物を、大魔神さまによろしく、だとか言って。
ただの眷属がナールに物言いをつけられるわけがない。俺は面倒くさくて、何も言わなかった。押しつけられた食べ物を、どうするべきかもわからなかった。
主人のナールに持っていくのが正しかったのかもしれないけど、そもそもナールは貢物になんか興味がない。食べ物だって、食べたりせずに燃やす。ただ、人がちゃんと自分を畏れているかの基準として見ていた。
おれがもらった貢ぎ物を眺めていたら、痩せた人間がじっと、こちらを見ていた。
おれも向こうを見ると、人間は驚いて逃げようとした。でも、おれが待てと言ったら止まって、こわごわこちらを見た。
おれは、自分でもよくわからなかったけど、人間をそばに招いて、籠の果物をやった。いま思えば、食べるところが見たかったんだと思う。
おれやナールは、食べ物を燃やすだけで、口に入れたりはしなかったから。
人間はずっと怯えていたけど、果物を食べるのはやめなかった。食べたいだけ食べたら、何かモゴモゴお礼を言って、残りを汚れた服に包んで振り返りながら帰った。
おれはこの時、間違えてしまった。人と、ジンとの距離をあの人間に間違えさせてしまった。

1.

それから季節がひとつかふたつか過ぎた頃だった。
日照りがひどくて、人間たちは不作に苦しんでいるようだった。ナールのところにも陳情があったけど、雨を降らしたりはしなかった。ナールは、雨が嫌いだから。
ナールへの貢物も、不作の影響だとかで減った。ナールは面白くなさそうにしていた。
神殿に近寄る人も減って、村からは人が離れはじめた。
そんな時だった。
飢えた人間が、神殿の祭壇に置き去りにされた供物を、その場で食べ始めたのは。
祭壇に登れば、おれが何もしなくともナールに伝わる。
ナールはすぐにやってきて、供物を燃やしてしまった。
人間は怯えたのか、食べ物が燃えてかなしいのか、目だけをぎらぎらさせて、おれたちを見上げていた。
ナールは、盗人を燃やそうと片手を上げた。
この人間は、飢えて魔神の供物に手を出した。
ならば魔神の火で焼かれるのは仕方がない。実際、それを覚悟してやるべきことなのだから。
罪には罰を。不敬には刑を。魔神の理屈では当たり前のことで、おれは、何かするつもりなんてなかった。
「その人間、見逃してやってもいいのでは」
誰が言ったのかと思った直後に、おれが言ったのだと気づいた。
つい、口から言葉が滑り出てしまった。
一度開いてしまった口からは、次々に言葉が飛び出した。
「どうせあなたは、供物を食べたりしない。
 いらないものなら、やってしまえばいい」と。
ナールは、食事中に突然「皿の上の野菜や魚がかわいそうだ」と泣き出した子供を見るみたいに─ つまり、とても面倒くさそうにおれを見た。
勿論こんな例えは、今じゃなければ思いつかないから、思い返してみれば、の話だ。

2.

……いや、子供なんかじゃない。
おれだって、上級魔神のナールにとっては、野菜や魚とそう変わらないものだった。
せいぜいは食器がいいところだ。
あの目で見られたとき、おれはすぐにそれを思い知って、身震いした。
ちょっとした気まぐれのせいで、おれは人間もろとも消されるんだと後悔した。
だけど主人は、片手で人間を追い払った。見逃してくれた。
人間は後も見ずに逃げていった。
そしておれを見て主人は、笑いながら言った。
私にもの言いをつけた罰だ。
お前に人間というものを教えてやる、と。
ナールはおれを、魔法の指輪に閉じ込めた。
100人の願いを3つずつ叶えなければ解けない呪いだ。
そうしておれは、色んな人間の手に渡りながら、願いを叶え続けた。

3.

はじめは、100人なんてすぐだと思ってた。けれど、違った。
皆、おれをしもべにすると大抵はお金を欲しがった。そして、2つめ、3つめの願いを出ししぶっておれを、指輪を隠した。
一度仕舞い込まれると長い間呼ばれることもなく、そのせいで、1000年経っても願いを叶えられたのは10人にも満たなかった。
指輪を巡って肉親同士が争うこともあった。
願いを増やさないと指輪を溶かすと脅す主人も。
おれに人を殺せと命じる主人もいた。
それはできないと言うと、遠回しな方法でそれを手伝わされた。
1000年、2000年と経つ頃には、おれはすっかり人間に愛想が尽きていた。
魔神ナールは多分、おれを試したんだと思う。
そもそもおれは、試すに値するほど人間に何か希望を思っていたわけじゃなかったのに。

4.

そんな頃に、どういう巡り合わせか……おれは金持ちの手から転がり出て、ひとりの奴隷の子に拾われた。
マタルという奴隷の子どもは、指輪から出てきたおれに、まずは自由を願った。
おれはすぐにその願いを叶えてやった。鎖をはずして、主人の手の届かない、暮らしやすそうな村へ連れて行った。

問題はそのあとだった。

二つ目の願いは、この場合なら金のはずだった。いつもそうだったから。
けれど、マタルはおれに、魔神のおれに「友達になって」と頼んだ。
正直ごめんだと思った。さっきも言った通り、すっかり人間不信になっていたから。
だから、「友達になってほしいなら、まず自由にしろ」とおれは返したけど、マタルは賢かった。

「いま自由にしたら、きっと何処かへ行ってしまうよね?
それじゃあ、友達になれない」 と泣きそうな顔で言うんだ。

勿論、そのつもりだった。
おれを懐柔して、うまくのせればいくらでも願いを叶えてもらえると思ったんだろう。子どものくせに浅ましい、そう思った。

けれど、魔神は願われれば、叶えなければいけないから、おれは友達になるしかなかった。マタルと同じぐらいの歳や背格好に姿を変えて、それからずっと、マタルと一緒の日々だ。いつ自由にしてくれるのかと聞くと、マタルはいつも、二つ目の願いが叶ったら、と言った。まったくかしこくて、失礼なやつだった。

5.

青年になったマタルは、
砂漠の魔宮に挑むと言い出した。魔宮の財宝を得て、すべての奴隷を自由にすると。
マタルが子どもの頃に、おれが寝物語に砂漠の魔宮の話をしたせいだ。
魔宮は、ナールが英雄気取りの人間をからかうために作らせたもの。
最下層には、確かに魔神に捧げられた財宝がある。けれど、そう簡単に辿り着けるようにはできていない。
特に、最下層の「仕掛け」は残酷だ。

けれどおれはすべての「仕掛け」を知っている。だからこそ、マタルは勝算があるとにらんだらしい。
そして確かに、途中までは上手く行った。
けれど、マタルは最下層で、砂漠の獅子にやられてしまった。
砂漠の獅子は、女の顔に獅子の体がついた怪物だ。マタルを引き裂き終わると、興味を失った。やつは、人を喰いもせずに殺す。魔神のおれは、無視された。
虫の息のマタルに、おれは最後の願いを使うように言った。「自分を治せ」と願うようにと。
自由になるのは、別の誰かに願ってもらうと。

けれどマタルが願ったのは、「全部忘れて、自由になれ」だった。


それじゃ願いがふたつ必要だと断った。
するとマタルは、笑って言った。「2つ目の願いは叶ってないだろう」と。
マタルは「お前なんか、最初から友達とは思っていなかった。お前もそうだろう。言うことをいくらでも聞いてもらうために言ったんだ。そんなの友達じゃない」
確かにおれは、マタルを友と呼んだことはなかった。だけど、それならお前を治して、ここから出られるよう願えと叫んだ。
返事はなかった。マタルにはもうその力は残っていなかった。
このままマタルが冷たくなれば、おれは指輪に戻るだけ。マタルの願いは叶わず、亡骸もおれも、誰に見つかることもなくここで眠り続ける。
自由になれば、瀕死のマタルを治せるほどの力はなくなる。癒しの力は願われてこそ。魔神のおれ自身にあるのは、炎の力、壊す力だ。

悩む暇は無かった。おれは……マタルの最後の願いをできるだけ叶えることにした。
けれど、おれ自身が納得できていなかったから、丸ごと忘れて、自由になることはできなかった。
おれは己の半分だけ切り離して、全て忘れさせて、自由にした。
いずれは擦り切れて消えるのはわかっていたから、マタルを弔うためにここに帰ってくるように暗示をかけたけど、どちらでも良かった。
残りのおれは指輪に戻り、マタルと共に眠り続けた。

そして今、思い出した。

おれは魔人カイス。
マタルの友達。

……レベリンは、マタルがおれに最初につけようとした名前。そのときは、断ったんだけど……。

これが、おれの話。

アンジェロ・アダムスキー

生真面目で厳格な幽霊執事

Angello Adamski

32歳 192cm 公爵家執事長

“ 命をうしなったあとにも、心に熱は灯るものらしい ”

生前、どこかの国の貴族屋敷で執事長(家令)を勤めていた幽霊の男性。
訳あって幽霊となり、今は浮遊霊として現世に止まっている。
四角四面で生真面目な性格。好物はクラシック音楽、詩。
丸っこい人魂お化けの姿でいることが多いが、月の光により魔力を得て、生前の姿をとることができる。基本的にどこか透けており、霊感の無い者には認識されないことが多い。
同僚であり、恋人でもある同じ幽霊執事の青年や、生前仕えた主人の姿をしている怪異と共にいることが多い

来歴

父も元・公爵家の家令であり、使用人になるべく育てられた。
8歳の時、若きセレニア嬢を見かけて淡い初恋
10歳頃から学校の傍ら屋敷に通い、12歳で従者見習いになった。
25歳で当時の公爵(ファビアンの父)の従者となった。
27歳のとき主人とともに兵役へ行く。
アダムは主人を庇って怪我を負って帰ったが、主人との信頼関係が深まり、屋敷でも評判が上がり、家令の不在時には代理を務めるようになる。
29歳のとき、先代の家礼と主人がアダムを正式に後任に指名して、家令となった。
異例の若さゆえに妬み嫉みも受けたが、誰にも文句を言わせないほど完璧に働き黙らせた。(陥れるための策謀が裏ではたらいたが、アダムを慕う部下たちの手により防がれた一幕もあったかもしれない)

32歳の時、屋敷で流行った病に倒れ死亡。
自分が倒れるまでは、皆の看病と墓掘りを続けていた


以後、屋敷は打ち捨てられ、
呪われていると噂のたった屋敷は打ち捨てられ、数十年の時が流れた。
屋敷を徘徊し過去の思い出を繰り返し再演するだけの亡霊になっていたが、屋敷を訪れた魔法使いにより本に封印され、更に百年が経過。
本の中では淡い意識のみの存在であり、ただただ屋敷へ帰りたがっていた。

本は色々あってグリマルシェ大陸へ。
そして封印が解かれ、祝宴が開かれた。
飛行機乗りの体を借りてその手伝いを行った。
屋敷の呪いが解かれ、未練がなくなったが同僚の思いがけない言葉を問いただすためと後始末のため残留。
屋敷での仕事は自我を保つためと、屋敷の保全と、公爵が何かやらかさないように監視の意味でも行なっている。
冬を経て同僚であるルカ・C・フローレンスと恋仲となり、今日に至る。


いま気がかりなのは、公爵がたびたび怪しい動きをしていること。と言っても常に怪しいのだが……。

現在

日中や月の細い日は屋敷にこもっていることが多い。
眠る必要がないのは便利だと思っている。
広い屋敷の保全管理に飛び回り、ポルターガイストで仕事をしている。
仕事に忙しくしつつも、恋人との時間もきちんととっている……はずだ。

●いまの屋敷と森について
お屋敷は魔法の霧を通じ、時空を超えて大陸とつながっている。
屋敷に縁深い者なら、行こうと思えば森を抜け、本来の場所に出ることもできるだろう。
ただし、屋敷の幽霊たちは既に色濃くエーテルに影響を受けているはずなので、不安定になるかもしれない。

生前の仕事内容とお屋敷の事情

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