縁のけものの物語

昔々、天界にはこの世のすべての叡智が詰まった書庫があり、書庫には、それらを守るけものがいました。

けものに名前はなく、ただ書庫番と呼ばれていました。そこは広く静かで、誰もいませんでした。
本当にたまに神の使いがやってくるのと、どこからか、意地悪な蛇が来るくらい。

でも、ある頃からそこにやってくるものがいました。それは人間でした。
人間は書庫の知識を盗みに来たのです。
当然、番人であるけものは、盗人を見つけると襲って爪と牙で引き裂き、殺しました。けものの心に任せれば、体は自然と動きました。

そんなところに蛇がやってきて、けものに人の味を教えました。

はじめは、無垢な獣。獣が獲物を食うことに罪はないはずです。
けれど怪物は、食べたひとの知を少しばかり得ることができました。

盗人から守るために、盗人を知れば、やがて美しく強く賢い、完璧な書庫番ができあがるはずでした。

そういう仕組みにつくられていたのですが、“設計”の誤算は、けものに人らしい考え方までが染み付いたこと。

けものはいつしか、ひとに似た心や、考える力を持つようになり、言葉を覚え、書庫のあらゆる書物を読むようになりました。
なにしろ時間なら、いくらでもありました。

けものは、書を通して人間のことを深く知りました。
詩を、歴史を、芸術を知り、人の持つ深き探究心に共鳴しました。
そうなると、人間はもはや、獲物ではありませんでした。もっと尊く、慈しむべきものに思えました。

ようやくけものは己のしたことに気づくと、深く後悔しました。悔やんでも戻らぬことを悔やむ姿は、まるで人間のようだったかもしれません。

けものが喰らったものは、口にするまでは、それが罪であることすら知らされない、知恵の果実でした。

けものは、次こそは人と言葉をかわし、友になりたいと望むようになりました。けれど今までにけものがたくさん食い殺してしまったせいで、天なる書庫の半人獅子は、人食いの怪物だと誰もが知るようになり、盗人もめったに来なくなってしまいました。来てもいざけものに出くわせば、剣を振るうか、一目散に逃げ出すだけです。

そんな中で1人の勇敢な若者が書庫にやってきました。けものは慎重に、手厚く、若者を歓迎しました。若者がけものの話に耳を傾けると、優しく話しかけ、好意を示し、次から次へ、いろいろな知識を与えました。

その人間はやがて、けものに気を許したように見えました。
それでも彼が懐に神獣を殺せるナイフを持っているのを、けものは知っていました。
そして、それぐらいされて仕方ないとわかっていました。

人間は青年から老人になるまでそこでけものと一緒に過ごしました。けものにサヘル(縁にいるもの)と言う名を与え、友のように長いときを過ごしたのです。

しかし人間は老いを感じたとき、帰りたいと言い出しました。ここで知を抱えて死ぬよりも、この知識を持ち出し、人々の役に立てたいと。

けものは寂しさに押しつぶされながらも、引き止める事を諦め、禁忌であった石板の知識を、友に与えました。

書庫を去る日、人間は一緒に下界へ逃げようと言ってくれましたが、けものはそうしませんでした。

意地悪な蛇が、けものにこう言ったのです。
人食いの怪物を今更人間が受け入れるもんか、と。
蛇は、怯んだけものに、更に言いました。

「お前のおかげで俺も“ご相伴”に預かれて楽しかったよ。最初、お前は殺すだけだった。でも、俺がこれは美味いと教えてやったら、喜んで喰うようになった。
母親に薬を作りたくて書庫にやってきた人間を食べたこともあったよな。お前は都合よく忘れているんだろうけど、おれは全部覚えているよ。
お前はずっと人殺しの怪物だった。今更どの面下げて人と暮らそうって言うんだ?」

蛇は、悪魔でした。
けものは気づいていましたが、何も言うことができず、英雄に別れを告げ、そのまま書庫に残りました。
そして、神により裁きを下されました。七つの方法で、七度の死を迎え、そのたびに生き返りました。

裁きに飽くと、神はけものを地に落としました。最早守る意味のなくなった石板も、ともに落ちました。

ボロボロの状態で落ちていたサヘルを助けたのは、幼い人間の娘でした。
サヘルは娘に自分の名を名乗りましたが、娘は言葉を持たず、名を呼ぶことができませんでした。

サヘルは娘に言葉を教え、寄り添って守るようになりました。娘はサヘルを呼び、慕い、恋しましたが、やがて同じ時間を生きられぬことを悟ります。
娘が人間の若者と恋をして、妻になり、母親になり、祖母になっても、サヘルはずっと、そばにいて一家を守りました。
そして、娘が死ぬときには、一緒に向こうへ連れて行ってほしいと頼みました。しかし、彼女はそれを許してはくれませんでした。サヘルに血族の守護を頼み、一人で旅立ってしまいました。
サヘルは最後まで娘に、己が人喰いの怪物であったことを伝えることができませんでした。

サヘルは娘に言われた通り、長いことその家族を見守っていましたが、最後の血族が息を引き取ったとき、旅にでました。

それからいくつもの出会いと別れがありました。
サヘルは人に心を移すたび、ついて行きたいと頼みましたが、誰もがサヘルを置いていきました。

どんなに胸が引き裂かれる思いをしても、サヘルは、人との関わりをやめられませんでした。人になることも望まずに、縁のけものであり続けたのです。

縁のけものは、今日もひとの輪、地上の命の輪の縁をうろうろと歩き回ります。
縁に終わりはなく、誰かが人喰いの怪物を裁くその日まで、けものは輪の中を覗き込み続けます。

そんな長い旅路の中、新たに訪れた大地、グリマルシェ大陸。

けものがここでどう生きたのかは、また別のお話。