主従会話

「それで、君はどうしたいノ? アンジェロ・アダムスキー。」
「……藪から棒に、何です?」
執事幽霊は、主人からのいつもながら唐突な問いかけに、片眉を上げた。
目の前の、青年貴族の姿をした怪異……ファン・エラル“公爵”は優雅に宙空で足を組み、こちらを見下ろしている。
「あの世に逝くのかどうか、って話ダよ」
「いえ、時期は……決めていません。私の一存でどうこうもございません。……そも、他に選択肢があるので?」
公爵はわざとらしく、長い足を組み替える。
「ンー、まぁネ。行き着く先は他にも」
「以前伺った限りでは、普通の人間の霊は、放っておけば摩耗して消えるか、モンスターや妖精の類になれ果てたり取り込まれる、というお話でしたが」
「そうだネェ、アダム。普通なら」
「……普通なら?」
含みのある言い方に、執事はおうむ返しに続きを促す。
「前までのキミは実際、普通の儚い霊だっタよね。
でもキミは少しずつ存在感を強めた。気づいてル?」
沈黙を肯定ととったか、そもそも返答を求めていなかったか。主人は芝居がかった仕草で、歌うように言う。
「強い感情が、未練がこの世に楔をうがつ。心当たりは……聞くまでもないネ?」
執事は、いささか下品な含み笑いにも鉄仮面を通したが、その奥で瞳は揺れた。
「……強い霊になると、何かあるのですか」
「なれ果てる先として、精霊とか、神の使い?とかの上級コースも選べまーす」
パンパカパーン、とクラッカーが弾けた。紙片と紐は、眉間に皺を寄せた執事の顔を通り抜けて宙を舞い、落ちてゆく。
「そういう道なら、モンスターや木っ端の妖精とは違って、キミはキミのまま、もっと強い存在になれる」
「私の望みは強くなることでは……彼と共に、屋敷の皆と同じ所へ逝くことです。それに変わりはありません」
「同じ所ネェ……本当に同じ所へ逝けるかナ?」
執事は思わず声音を固くする。
「……どういうことです」
「さア……お互いのこと全部わかってるつもりでも、自分自身も気づいてないことまではわからないよネ」
「閣下……いえ、ファン・エラル。貴方は何を知っているんです? 」
「さあ、何も知らないヨ、何も。ただ、ワタシは惑わし迷わす怪異。本来の“道”がうっすら見えるンだよね。そして今、彼の道はひとつじゃない」
「彼が、何か別のものになる道が?」
「そうとは限らないケド〜、あれだけ魔力が強い霊なら、何かあるだろうネェ……大きな存在に見初められちゃったりして」
薄桃色をした怪異は長い人差し指を立てると、先にゆらゆらと揺れる幻の炎が灯った。
その中に次々と神や天使や悪魔、執事の知り得ない何かの偶像が浮かび上がる。
「気をつけなよォ。私たちみたいなのにとって、強い魂って、とおおおっても、美味しそうだから。
ああ、いっそ……キミらも私の一部になるってのはドう?」
笑う怪異は、指先の火を緑色の舌に押し付けて揉み消した。破滅的な提案に、渋面の執事はため息を吐く。
「……正気の沙汰では」
ない、と言い終わる前に、けたたましい笑い声が響いた。
「アハハ、アハハハ! 正気? ワタシが正気に見えてた?」
ファン・エラルの口は耳まで裂けて、真っ黒い眼孔が髑髏のように大きくなる。風船のように膨らみ、みるみるうちに肥大化した顔が、目前に迫る。
そんな顔を間近に見ても、アダムは顔面がぶつからぬようにと真っ直ぐに伸びた背筋をやや後方に逸らしただけで、半歩も引かずに見返した。
もしも足があったとしても、踵を浮かせることもしなかっただろう。
「これは、失言をいたしました。……ええ、今は、正気のようですね。そのように振る舞っていても、いつも我々をご心配くださっている。
……ですから、時折、貴方がファビアン様ではないと忘れそうになる」
すっかりこの怪異にも慣れてしまったのか、怖気付かない様子の執事を見て、悪霊はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「ふうん。ふふん。そうだとしたら、きっとファビアンが、彼女が残した“残り物”。そんな正気はいずれは使い切るヨ」
「使い切れば、どうなるんです」
「そうなれば……君らをあの世に案内するまでもなく、食べてしまうだろうネ」
「主人を諌めるのも、我々の務めかと。幸い、近頃は腕に覚えもございます」
悪戯が失敗した子供のように唇を尖らせて、公爵はすっかり元のサイズに縮んだ。
「フフ……忘れないデね? 私たちは君らのことを、かわいい従者だと思っていルけど……それは3時のおやつに食べちゃいたいってことでもあるんだかラ。
そうしちゃう前にサァ、身の振り方を決めておいてヨ」
「……ご忠告に感謝を。どんな道であろうと、私は彼と共にゆきます。見送り役は、もう二度と御免被る」
強い語調に呼応するように、屋敷に灯る蝋燭の火が一斉に瞬いた。アダムがその輪郭を一層強めたのを見ると、怪異は満足げにひとつ笑った。

縁のけものの物語

昔々、天界にはこの世のすべての叡智が詰まった書庫があり、書庫には、それらを守るけものがいました。

けものに名前はなく、ただ書庫番と呼ばれていました。そこは広く静かで、誰もいませんでした。
本当にたまに神の使いがやってくるのと、どこからか、意地悪な蛇が来るくらい。

でも、ある頃からそこにやってくるものがいました。それは人間でした。
人間は書庫の知識を盗みに来たのです。
当然、番人であるけものは、盗人を見つけると襲って爪と牙で引き裂き、殺しました。けものの心に任せれば、体は自然と動きました。

そんなところに蛇がやってきて、けものに人の味を教えました。

はじめは、無垢な獣。獣が獲物を食うことに罪はないはずです。
けれど怪物は、食べたひとの知を少しばかり得ることができました。

盗人から守るために、盗人を知れば、やがて美しく強く賢い、完璧な書庫番ができあがるはずでした。

そういう仕組みにつくられていたのですが、“設計”の誤算は、けものに人らしい考え方までが染み付いたこと。

けものはいつしか、ひとに似た心や、考える力を持つようになり、言葉を覚え、書庫のあらゆる書物を読むようになりました。
なにしろ時間なら、いくらでもありました。

けものは、書を通して人間のことを深く知りました。
詩を、歴史を、芸術を知り、人の持つ深き探究心に共鳴しました。
そうなると、人間はもはや、獲物ではありませんでした。もっと尊く、慈しむべきものに思えました。

ようやくけものは己のしたことに気づくと、深く後悔しました。悔やんでも戻らぬことを悔やむ姿は、まるで人間のようだったかもしれません。

けものが喰らったものは、口にするまでは、それが罪であることすら知らされない、知恵の果実でした。

けものは、次こそは人と言葉をかわし、友になりたいと望むようになりました。けれど今までにけものがたくさん食い殺してしまったせいで、天なる書庫の半人獅子は、人食いの怪物だと誰もが知るようになり、盗人もめったに来なくなってしまいました。来てもいざけものに出くわせば、剣を振るうか、一目散に逃げ出すだけです。

そんな中で1人の勇敢な若者が書庫にやってきました。けものは慎重に、手厚く、若者を歓迎しました。若者がけものの話に耳を傾けると、優しく話しかけ、好意を示し、次から次へ、いろいろな知識を与えました。

その人間はやがて、けものに気を許したように見えました。
それでも彼が懐に神獣を殺せるナイフを持っているのを、けものは知っていました。
そして、それぐらいされて仕方ないとわかっていました。

人間は青年から老人になるまでそこでけものと一緒に過ごしました。けものにサヘル(縁にいるもの)と言う名を与え、友のように長いときを過ごしたのです。

しかし人間は老いを感じたとき、帰りたいと言い出しました。ここで知を抱えて死ぬよりも、この知識を持ち出し、人々の役に立てたいと。

けものは寂しさに押しつぶされながらも、引き止める事を諦め、禁忌であった石板の知識を、友に与えました。

書庫を去る日、人間は一緒に下界へ逃げようと言ってくれましたが、けものはそうしませんでした。

意地悪な蛇が、けものにこう言ったのです。
人食いの怪物を今更人間が受け入れるもんか、と。
蛇は、怯んだけものに、更に言いました。

「お前のおかげで俺も“ご相伴”に預かれて楽しかったよ。最初、お前は殺すだけだった。でも、俺がこれは美味いと教えてやったら、喜んで喰うようになった。
母親に薬を作りたくて書庫にやってきた人間を食べたこともあったよな。お前は都合よく忘れているんだろうけど、おれは全部覚えているよ。
お前はずっと人殺しの怪物だった。今更どの面下げて人と暮らそうって言うんだ?」

蛇は、悪魔でした。
けものは気づいていましたが、何も言うことができず、英雄に別れを告げ、そのまま書庫に残りました。
そして、神により裁きを下されました。七つの方法で、七度の死を迎え、そのたびに生き返りました。

裁きに飽くと、神はけものを地に落としました。最早守る意味のなくなった石板も、ともに落ちました。

ボロボロの状態で落ちていたサヘルを助けたのは、幼い人間の娘でした。
サヘルは娘に自分の名を名乗りましたが、娘は言葉を持たず、名を呼ぶことができませんでした。

サヘルは娘に言葉を教え、寄り添って守るようになりました。娘はサヘルを呼び、慕い、恋しましたが、やがて同じ時間を生きられぬことを悟ります。
娘が人間の若者と恋をして、妻になり、母親になり、祖母になっても、サヘルはずっと、そばにいて一家を守りました。
そして、娘が死ぬときには、一緒に向こうへ連れて行ってほしいと頼みました。しかし、彼女はそれを許してはくれませんでした。サヘルに血族の守護を頼み、一人で旅立ってしまいました。
サヘルは最後まで娘に、己が人喰いの怪物であったことを伝えることができませんでした。

サヘルは娘に言われた通り、長いことその家族を見守っていましたが、最後の血族が息を引き取ったとき、旅にでました。

それからいくつもの出会いと別れがありました。
サヘルは人に心を移すたび、ついて行きたいと頼みましたが、誰もがサヘルを置いていきました。

どんなに胸が引き裂かれる思いをしても、サヘルは、人との関わりをやめられませんでした。人になることも望まずに、縁のけものであり続けたのです。

縁のけものは、今日もひとの輪、地上の命の輪の縁をうろうろと歩き回ります。
縁に終わりはなく、誰かが人喰いの怪物を裁くその日まで、けものは輪の中を覗き込み続けます。

そんな長い旅路の中、新たに訪れた大地、グリマルシェ大陸。

けものがここでどう生きたのかは、また別のお話。

彷徨う鬼火の話

昔々、あるところに、
ウィリアムという、悪賢い男がいた。
彼は堕落した人生の末、死んだあとも悪魔を脅迫し、聖人を騙して怒らせ、地獄にも天国にも行けない魂となった。

そうなってもウィリアムは飄々としたものだった。
ウィリアムには寂しさも、恋も、愛も、何もなかった。
がらんどうの人間だから、行き場がなくなっても大して困らなかった。

赤カブをくりぬいたランタンを提げて道行く旅人を迷わせたりどぶ沼に導いては指をさして笑っていたが、長い時間を彷徨い続けるうち、ウィリアムの魂はすり切れて、もはや風前の灯火だった。

ゴーストとは、過ぎ去った誰かの影法師だと誰かが言う。
もうそこにはいないはずなのに、想いの残滓がカタチを作り、ここにいると叫び続ける。
けれど、器も拠り所も持たない魂は磨耗し、劣化していくものだ。

存在の消滅を予感して、さすがのウィリアムも恐怖した。
死んだというのにおかしな話だが、生存本能と言うべきか、己の意識が消える恐怖だけは、たしかにあった。

だからウィリアムは他の魂を食べて、存在を強めようとした。

かといって、同じゴーストを食べてもダメだ。
その辺をうろついてる奴らはかびくさくて、とても食えたものじゃない。磨耗した魂なんて大した力にもならないのに、いまのウィリアムでは、返り討ちにあうことも考えられる。
みずみずしい、死にたての魂でなければいけない。

ウィリアムは、ランタンに誘われてやってくる旅人を死なせようと試してみたが、なかなか成功しなかった。
だから方針を切り替えて、放っておいても死にそうな人間を探した。
そして、貧しい村に行けば、いくらでもそんな人間はいた。

初めに食べたのは、疫病で死んだ村の子どもの魂だった。
ウィリアムはかわいらしい坊やの魂を死神の横からかすめ取って、ずるりとひと呑みにして逃げた。

子どもの魂を食べると、ウィリアムの消えかけていたランタンの灯りはひときわ大きく輝いた。

ところが、生きた子どもの魂はやんちゃで、ウィリアムの中で大きく暴れ回り、一つに溶け合うまで長い時間がかかった。
子どもの魂がなじむと、この空っぽだった亡霊にも変化があらわれた。

具体的には、もっともっと遊びたくなった。誰彼かまわずちょっかいをかけたくなり、甘いお菓子が欲しくなった。
お菓子かいたずらか、そう唱えながら家々をまわり、人だけでなく馬も犬もみんな脅かしてまわった。
けれど、いくらおどかしても、菓子を食べても、満たされないものがあった。
ゴーストの毎日には刺激が足りない。なにせ、時間が限りなくあるのだ。
欲深いゴーストは、すぐにまた魂を欲した。

次に食べたのは、誰にも看取られず孤独に死んだ老婆の魂だった。老婆は今際にウィリアムの姿を見たのか、私にもお迎えがあるのね、とかすれた声でつぶやいて、うっすら微笑んだ。ややしなびた魂を呑み込むと、呆気なく溶けてしまった。

すると、未だスカスカの心に感じたことのない寂寥感が押し寄せ、今度は寂しくてたまらなくなった。そして、美しさ、若さへの渇望が生まれた。
誰かがそばにいてほしい。他者の関心が欲しい。
だけど、若くなければ、美しくなければ、関心を持ってもらえない。

だから、今度は美しい娘の魂を食べた。
世を儚んで冷たい川に身を投げたその魂は、ひどい男に花の盛りを摘み取られ、裏切られたのだと掌の中で泣いていたが、ゴーストはかわいそうにと思ってもない慰めを言って、それを呑み込んだ。
娘の魂がなじむと、今度はひどい寒気がゴーストを襲った。そして、身を滅ぼすような焦がれる想いが胸の内でくすぶった。

寒さに悩まされたゴーストは、火に焼かれた罪人の魂を食べてみた。しかしこの寒さに、どうやら死因は関係ないようだった。

陰気な魂ばかり取り込むから寒いのかと思い、笑いを絶やさなかった芸人の魂を食べると、他人への関心がもっと強くなったが、寒さは大して変わらなかった。

それからも、老若男女を問わず、ゴーストは見つけた魂をランタンで誘い、己の中に取り込んだ。

「おいで、おいで、寒いタマシイはおいで
この灯で良いところに この灯で悪いところに
俺が ぼくが あたしが 私が
案内してあげる!」

彷徨う鬼火はたくさんの魂を、
地獄にも天国にも行けない、永遠の旅路に招待した。
ゴーストの中には、溶けきらない無数の魂が渦巻いていた。

魂を一つ食べるたびに、色々な感情が押し寄せる。
空っぽの心に、悲しみが、楽しさが、寂しさが、恋しさが、恨みが流れ込む。なんとも刺激的で、長い退屈を埋めるにはもってこい。
ゴーストはまるで海水を飲むように、飲み干すたびに膨らみ、そして渇いていった。

彷徨うゴーストはある日、放埓で好色な貴族の青年の魂を食べた。
青年を見つけたとき、彼はまだ生きていた。
すらりと背が高く、自信に満ちて、美しい顔貌をしていた。

身投げした娘の、かつての想いびとによく似たかんばせ。
女性のもとへ通う途中の青年は、娘の声で何度か呼びかけただけで驚いて落馬し、胸や脚を馬に踏まれてあっさりと死んだ。

まだ冷え切らない青年の体に触れて、ゴーストは生きたヒトのあたたかさを思い出した。

青年の魂を飲み込んだゴーストは、気まぐれを起こして、青年の体に入ってみた。
生きた人間に入るのは無い骨が折れるが、空っぽの体ならば簡単だ。

そのまま魂の求めるまま、彼が向かおうとしていた愛人のもとへ行ってみたが、貴婦人はバルコニーから青年を見ると悲鳴をあげて中へ引っ込み、ぴしゃりと窓を閉めてしまった。それもそのはず、胸から折れた骨が飛び出し、足はあらぬ方向へ曲がっていた。

体に刻まれた記憶をたどって、今度は青年の家族のもとへ帰ると、彼の母親は涙を流しながらも死に体の息子を迎え入れ、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。

ゴーストは束の間、無邪気な子供のように母親に甘えて、満ち足りた時を過ごした。
ゴーストの中にいたいくつかの溶け残りの魂が、家族を思い出して抜け出ていった。

やがて青年の体は腐り、溶け落ちていく。
それでも世話をし続ける青年の母親は、世間一般の感覚に照らすと狂っていたと言えるだろう。

そのうち誰の差し金か、神父だか牧師だかがやってきて、ゴーストを骸の器から追い出した。
それだけでなく、ゴーストの中の無数の魂を解放しようと、彼を締め上げて、聖水を浴びせてきた。

弱ったゴーストは火の玉になって、文字通りの死に物狂いで逃げて逃げて、何から逃げていたのかも忘れてもまだ逃げて、逃げていたことも忘れて、やっと止まった。

逃げるうちに元の形を思い出せなくなったゴーストは、とりあえず青年の姿をとった。
それから、ふと気付いた。
思い出せないのは姿形だけではないことを。
ごちゃ混ぜのゴーストは、自分が元々誰だったのかも、どのような人間だったのかも、わからなくなっていた。

男だった気もするし、女だった気もする。
子どもだったかもしれないし、老人だった時もありそうだ。
とんでもない悪人だったし、もちろん比類なき善人だ。
何もかもめちゃくちゃで、自我さえもごちゃごちゃだった。

淡く光る鬼火は、訳も分からぬままふらふらと彷徨うほかなかった。
己は何者なのかを探しながら長い時を過ごし、やがて、
市街地の墓地を自分の家にした。
とはいえ、もちろん名前も思い出せなかったので、「Funeral」の看板を表札ということにした。

そして、とりあえずの拠り所を得たゴーストは、めちゃくちゃな自我の中から街に合ったものを拾い上げて、整理して、とりあえずの「性格」を決め、己を作り替えた。

殻となった「誰かさん」の魂はすっかり磨耗していて、もう薄皮ほどにもなかった。
残ったのは全身をほんのり染める、赤カブの色ぐらいのものだった。

これが、最早誰も語り得ない彼の末路。

天国にも地獄にも行かず、消えることすら拒否して他者を呑み込み続け、
ついには自分自身を上書きしてしまった
馬鹿なウィロウザウィスプの話。

少年が空を知った日

或る不幸な家族の話 の後、アルフォンソが飛行機乗りを目指したきっかけの話

警察に自首してから、アルフォンソは裁判を受けて、少年院へ行くことになった。
父親を刺したにも関わらず、刑はそれほど重くはなかった。
刺された父親が死ななかったことが一番大きいだろうが、
事情が事情なことと、仕事先の人など、
おそらくアルフォンソの人柄や、バラッカ家の状況を知る誰かが口添えしてくれたのもあるだろう。

ナイフの刃渡りが小さく、大事な臓器を傷つけていなかったため、
父は大事には至らなかったと聞かされた。
アルフォンソは、中途半端なことをしてしまったと思った。
これでは母の目も、永遠に覚めることがないだろう。

いや、もう母もどうでもいいのだ。

少年院では、糸の切れた人形のように、ぼうっと過ごしていた。
ぼうっとしすぎて知らないうちに不興を買ったらしく、
年上のグループに喧嘩を売られて、ボコボコにされた。
一方的に殴られるのには慣れていたが、さすがに腹が立ったので、
反撃してリーダーの前歯を全部折ってやった。
独居房に隔離されたり、刑期が長くなったりしたが、どうでも良かった。
不良看守に遊び半分に嬲られても、すでに心が壊れていたから平気だった。

少年院を出たアルフォンソは、二度と家に戻るつもりはなかった。
アルフォンソの身元引き受け人として名乗りをあげたのは、
かつてアルフォンソを預かった、父の知人だった。
名前すら覚えていなかったが、フランクと言うらしかった。
ちょうど軍を辞めたところにバラッカ家のことを知ったのだそうだ。

フランクはアルフォンソに上着をかけて、車に乗せた。
助手席で人形のように黙っているアルフォンソに何も言わず、
ただ海辺をゆっくり走って、沈む夕日を見せた。

フランクの家は幸いなことに別の街だったが、そこにも飛行場があった。
海とは少し離れていて、郊外には畑と滑走路がひろがっていた。

フランクは抜け殻のようになったアルフォンソを車であちこちに連れ回した。
アルフォンソは正直言ってそのお節介を鬱陶しいと感じていたし、ほとんど無視をきめこんでいた。
それでもフランクがあまりにしつこいのでとうとう根負けして、サービスで楽しそうなふりをしてやった。
するとあんまり素直に喜ぶので、なんだか申し訳ない気持ちになったし、毒気も抜かれていった。

そしてある日、アルフォンソからフランクに、「飛行機に乗ってみたい」と言った。
ずっと地上から見送るだけだったが、閉塞感に満たされていた彼の人生にとって、
鳥のように自由に空を駆けるその姿は、憧れそのものだった。
フランクは頷き、2人乗りの飛行機でアルフォンソを空の旅へと連れ出した。

感じたこともない衝撃と速度、風の冷たさ、眼下の光景。
その時、彼ははっきりと自分の運命を感じた。

欲しいものは空にある。
冷たい風が、自分にまとわりつく粘ついたものすべてを振り落としてくれる。

地上に降りたアルフォンソは生まれ変わったようだった。
すぐにフランクに弟子入りして、飛行技術、整備技術を学んだ。
聞いていないのに何故かついでにナンパ術や処世術なども教えてくれた。

フランクは明るくて、お節介で、どこへ行っても話題の中心にいる、とにかく人を惹きつける男だった。
彼のもとでアルフォンソは少しずつ、本来の明るさ、前向きさを取り戻していった。

新しい学校にもちゃんと通った。
同年代の仲間は、アルフォンソからしたらとても気楽で、子供っぽく見えた。
ただ、その子供っぽさに救われた部分もあった。
友達と悪さをして、フランクにどやされたのも一度や二度ではない。
同年代ではかなり落ち着いていた彼は、まあ非常にモテたので、ちょっとした恋もした。
今までを取り戻すように、アルフォンソは残りわずかな子供時代を過ごした。

整備の腕を上げ、飛行機も乗りこなすようになったアルフォンソは、
やがて空軍士官学校に入ることを望むようになった。
これはフランクも応援したし、士官学校入学にあたっては、
父の実家であるバラッカ家の後押しが得られた。

軍人を継がなかった父の代わりと言われるのは癪だが、
どんなコネだろうと使ってやる気持ちだった。
そうしてなんとか末席にねじ込んでもらい、
晴れて学生の資格を得たアルフォンソは、フランクのもとを去った。

アルフォンソが18歳の時だった。

或る飛行機乗りの家族の話

アルフォンソの両親との話 ※虐待や一部暴力的な描写があります

青年は約束されていた将来を捨て、娘の手を取った。
娘は絹織りの牢獄から逃れ、青年の手を取った。
2人とも家族を捨て、駆け落ちをした。
家族を捨てても2人は永遠に共にいようと誓ったのだ。
誰の思いを裏切っても、お互いを一番大切にしようと決めた2人だった。

青年の名は、セルジオ・バラッカ。
栄誉ある軍人の家の三男坊だった。

娘の名は、マリアンナ・ボルハ。
高名な貴族の家の一人娘だった。

後ろ盾をなくした青年と、世間知らずの令嬢。
寄る辺のない2人が知らない街で生きるのは簡単なことではなかった。
生活は厳しく、頼れるものもないなかで、セルジオは漁師の下働きに入り、マリアもよく彼を支えた。
若い夫婦は少しずつ街に馴染み、やがて青年は、小さいながらも自分の船を持つようになった。

ある日青年は父になり、娘は母となった。
2人の間に、赤ん坊が生まれたのだ。
アルフォンソと名付けられた男の子。
ニコニコとよく笑う、愛想のいい子だった。
セルジオはますます仕事をはりきり、家を空けることも多くなったが、夫婦の愛は色褪せることがなかった。

父と母と子、港町での、細々とした3人暮らし。
アルフォンソは母にべったりで、貧しいながらも愛されて育った。
父であるセルジオと接することは少なかったが、父が出かけるときに必ず言った言葉、「俺がいない間は、お前が母さんを守れよ」という約束は、大事に思っていた。
どちらが先に母のもとに走って行けるか、なんて遊びもしたものだ。
セルジオはいつも大人気なく走って、どうやっても追いつけないアルフォンソを泣かせて、マリアに叱られていた。

一家の幸せにひびが入り始めたのは、母、マリアの胎に新しい命が宿った矢先のことだった。
セルジオの船や網が傷つけられたりする事件が起きるようになったのだ。
よそ者である自分たちへの嫌がらせかと、夫婦は考えた。
しかし、怒りに燃えて犯人探しをしたセルジオがたどり着いた結論は、
マリアの家、ボルハ家からの嫌がらせだった。
マリアはこんなに遠いところまで逃げたのに、そんな筈はないと首を振ったが、セルジオはそう信じて疑わなかった。
口論ひとつなかった夫婦はその時初めて、言い争いをした。

そして嵐の日、港にしっかりと固定されていたはずのセルジオの船は、残骸となって浮かんだ。
杭か縄が腐っていたのだろうとか、ちゃんと固定していなかったのだろうとか、人は好きに言ったが、まだ彼を助けようとする人はたくさんいた。
仕方なく漁師仲間に借金をして網などを買い、また他の船を間借りして仕事を続けようとした父に、さらなる苦難が降りかかった。
船を貸してくれると言っていた漁師仲間までもが、突然に「これ以上船は貸せない」と首を振ったのだ。
収入源を絶たれ借金だけが残ったセルジオは、一晩家に帰らなかった。
翌日ふらふらと玄関の扉を開いた父からは、ひどい酒と吐瀉物の匂いがした。それでも母、マリアは泣きながら父を迎え入れ、帰ってきてくれて嬉しいと、思い切り抱きしめた。

マリアの励ましもあり、セルジオはなんとか頼み込んで別の船の下働きとして雇われ、働き始めた。一家には、なんとしても金が必要だった。
妻の腹に宿った新しい命、アルフォンソの弟か妹の出産費用。体調を崩しがちになっていた妻と子のためにも、セルジオは歯を食いしばって働いた。

セルジオの酒の量は、その頃から徐々に増えていった。
仕事場でのことを、セルジオはマリアにもアルフォンソにも話さなかった。今までもそうだったが、何がたくさんとれただとか、そういう明るいことをたまに言うことはあっても、不満などは家に持ち込むことがなかった。
一度、マリアが仕事のことを話すよう促したことがあるが、セルジオはただ「君に俗世間のことなんてわかりはしない。わかってほしくもない」と呟いて、それ以上何も語らなかった。
今も、思うようにいかないことはいくらでもあるのだろう。安酒を煽りながら、ただ黙って肩を震わせるセルジオを、マリアは強く咎めることはできなかった。

しかし、やっとありついた下働きの仕事さえ、長くは続かなかった。その年は記録的な不漁が続き、彼はまたも職を追われることになったのだ。

借金を返すあてもなく、そのせいで漁師仲間たちとも不仲になってしまった彼に、もう海の仕事はできなかった。
それからも、セルジオは職を探しに走り回った。不漁のせいか港町はどこも不景気で、隣町やその隣まで職を探しに行かねばならなかった。

次の仕事も、マリアを任せられる病院も見つからず、日雇いの仕事で暮らす日々が続いたある日、バラッカ家に訪問者があった。
マリアの実家、ボルハ家の人間だった。
お腹の子の身を案じて、マリアが自分の母へ、窮状を訴える手紙を送っていたのだ。マリアは父母に大事にされた箱入り娘。家を捨てきれてはいなかった。

出産の面倒を見る代わりにボルハ家が出した条件はひとつ。セルジオをついてこさせないことだった。
マリアは必ず生まれた赤子を連れて帰るとセルジオに約束し、アルフォンソをお願いと言い残して車に乗った。
セルジオは一度だけ壁を拳で叩き、わかったと呟いてマリアを見送った。

彼女を箱庭から連れ出した時、絶対に守るとか、必ず幸せにするとか、苦労はさせないとか、そんなことを言った。そう約束したはずだった。
二人の間の約束には、もうひびが入ってしまっていた。

アルフォンソは父の制止を振り切り、家を飛び出して遠ざかる車を追いかけたが、あっという間に引き離されてしまった。
もしかしたらアルフォンソ以上に母と離れ難かったのか、父は、少しでも早く母と赤子を迎えるため、ボルハ家のある街へと向かった。

その間アルフォンソは、父の数少ない知人に預けられた。
その男は飛行機の整備士をしている軍人だとかで、ちょうど軍役のない時期だった。
母にも会えず暇を持て余すアルフォンソは、学校から戻るとだだっ広い滑走路の片隅にある小屋から、飛び立つ飛行機を眺めていた。

数週間して、父、セルジオが迎えにきた。
しかし戸口に立ったとき、今にも死にそうな顔をしていた。それを見かねた知人が別室へ引っ張って行った。
それから少しして、父はただ「帰るぞ」とだけ言ってアルフォンソの腕を掴み歩き始めた。
母や赤ん坊はどうしているのか、呼びかけても返事はなく、口を引き結ぶ父の表情から、ただならぬ雰囲気だけ伝わった。
アルフォンソは、母と赤ん坊になにかがあったのだと子供ながらに察して、わけもわからずすすり泣きながら家路を歩いた。

家に戻ったアルフォンソを迎えたのは、見たこともないほどやつれた母だった。
それでも母に会えた喜びが勝り、アルフォンソは駆け寄って母を抱きしめた。
母は微笑んで、いつものように抱きしめ返してくれた。
ああ、いつも通りのママだ、とアルフォンソは安堵した。そして、その喜びのままに、「ねえ、赤ちゃんはどこ?」と尋ねた。
一瞬にして曇った母の顔を見て、また不安に駆られ、尚も尋ねたが、いつもなんでも答えてくれるはずの母は顔をくしゃりと歪ませ、固まってしまった。異様な雰囲気に押しつぶされまいと尚も問いかけた時、急な衝撃にアルフォンソの体は吹っ飛んだ。
アルフォンソにはなにが起こったかわからなかったが、母の悲鳴と、頰の刺すような痛みと、ぶつけた背中の痛みだけは感じていた。
父が、セルジオが初めて子供に手をあげた瞬間だった。

マリアはアルフォンソを抱きしめて、泣きながらセルジオに謝った。
セルジオはぼんやりと妻子を見つめてから、我に返って泣きながら謝った。
ママを泣かせてはいけなかった。赤ちゃんのことを聞いてはいけなかった。
アルフォンソは自分が何か悪いことをしたのだろうと、なんとなく思った。
その日は、それで終わりだった。

実際、赤ん坊は死産だったと、夫婦は聞かされていた。
エリザベッタと名付けられるはずだったその赤子が無事に生きて、
ボルハ家で密やかに育てられていることなど、知るよしもなかった。

それから、セルジオの酒の量は増える一方だった。
酒浸りになった彼はいつも怒りに支配されているように見えた。
アルフォンソは時どき何かささいな理由で殴られるようになり、父が酒を飲んで帰るたび、細い体にはいくつも青あざがついた。ときには、真っ暗な倉庫へ放り込まれることもあった。
近所はバラッカ家との関わりを避けた。
まるで、一家がゆっくりと破滅していくのを見守るように。

倉庫の中は狭くて暗くてかびくさくて、幼い彼に恐怖を植え付けるには十分だった。いつも泣き疲れるまでドアを叩いていた。毎回、ドアを開けて外に出してくれるのは母だった。
そういう時、決まって母は、ごめんなさいと泣いて謝った。

アルフォンソは、自分が悪い子だからいけないのだろうと、心のどこかでそう思っていた。罰を与えなければいけないような悪い子だから、母も自分を助けることができないのだと、そう自分を納得させていた。
父が、自分を庇おうとした母に対し手をあげるまでは。

その時はっきりと、アルフォンソはセルジオを敵と見なし、
それからは、父から母を守ろうとするようになった。

学校が終わると遊びもせずまっすぐに母の待つ家へと帰り、母の内職を手伝った。そのうち学校をさぼって、整備場で手伝いをし、小遣いをもらうようになった。年も2歳サバを読んで、新聞配達もやった。
父の帰ってくる朝から夜にかけては必ず母と一緒にいて、息を殺して過ごし、運が悪いときには、降り注ぐ暴力に耐えた。

周囲の大人がアルフォンソを引き離そうとしたことは、1度や2度ではない。それでもアルフォンソは「ママと一緒にいなければ」と家へ戻った。

酔うと化け物のようになった父だが、常にそうではなかった。
日中、酔っていないときに家へ帰ると、花束を母に渡し、いままでのことを詫び、稼いできた生活費を渡した。そのたび母は頷いて父を抱きしめていたが、アルフォンソは3度目あたりでもう飽き飽きしていた。
酔っている時の父の印象が強すぎて、今更真人間のような顔を見せられても気持ち悪く感じたし、態度にも出した。
そうすると父は押し黙り、足早に家を出て行く。母は父をなんとか連れ戻そうと追いかけて行ってから、帰ってきて悲しげにアルフォンソを見て、パパのことを許してねと言った。

勿論、許す気なんて無かった。自分がもう少し大人で、まとまったお金さえあれば、今すぐにでも母を連れてここを出て行ける。だが今はそのどちらもない。母を路頭に迷わすわけにはいかない。自分が殴られて済むのならもうしばらくは耐えられる。あるいは、父よりも自分が強くなることができれば。

そうして日々をやり過ごすうち、アルフォンソは15歳になっていた。
この頃になるともう、父が生活費を持って帰ることも少なくなり、母も外に働きに出ていた。
母の美しかった指先があかぎれてひび割れているのを見るのは、アルフォンソにとって何より辛かった。
だが、こつこつと貯めたお陰で、借金をまとめて返し、この街を出られる希望が見えていた。

その日アルフォンソは母の誕生日に花を買って、家路に着いた。
玄関まで来てすぐ、強い酒の匂いと、廊下の靴跡に気づいた。
痛い、やめてという女の泣き声に弾かれるように走って居間へ入ると、母の豊かな金髪が床に広がっていた。
そして、細い母の体に馬乗りになっている男の姿を見た。

アルフォンソは激昂して飛びかかり、思い切り父の体を横に突き倒した。
倒れた父の手から、何か金属が床に転がった。
テーブルに置いていたナイフ。先端に血が付いている。
素早く母に駆け寄ると、未だパニックのまますすり泣く母の白い腕に、ナイフで文字を刻んだような傷があった。セルジオと、父の名前が。

そこから先は怒りで頭が真っ白になって、アルフォンソは父を罵倒した。逆に、心のどこかがすうっと冷えていくような感覚もあった。
もういい、カタをつけろ。こいつは敵だ。さすがの母にもわかっただろう。
そして、起き上がって襲いかかって来た父に、拾い上げたナイフを無我夢中で突き立てた。
死ね、死んじまえ、クソ野郎。
そんなことを言ったかもしれない、言わなかったかもしれない。
父はナイフが刺さったまま後ずさって、その場に崩れ落ちた。

もういい。自分が人殺しで捕まったとしても、貯めてある金はある。母がそれで自由になるならばそれでいい。
アルフォンソはただそう思って、母に別れを言おうと振り向こうとして、突き飛ばされた。
マリアはアルフォンソを突き飛ばして、倒れたセルジオのもとへ駆け寄った。
血の流れる自分の腕を気にする様子もなく、セルジオの胸へ顔をうずめながら、私を置いていかないで、ひとりにしないで、と泣き叫んだ。

アルフォンソがどうしてそんな奴に、そんなことをされてまで、と呟きながらふらふらと近寄ると、今までに見たこともない顔で、マリアは振り向いた。

血と涙に濡れ、憎しみに満ちた顔だった。
どうしてこの人を殺したのとかすれた声でつぶやき、それから絞り出すように、
ひとごろし、お前なんか産むんじゃなかったと、呪いの言葉を吐いた。

それでやっとアルフォンソは、今までの自分の勘違いに気づいた。

母が父から離れなかった理由。
それでも愛していたからだ。父のことを。
母が自分を守るより父といることを選んだ理由。
愛していたからだ。自分よりも父のことを。
母が自分を愛おしげに見つめる理由。
髪の色を褒め、目元や耳の形を喜んだ理由。
最愛のセルジオに似ていたからだ。

母にとって自分は父の模造品であっても、最愛ではなかった。

吐き気に襲われて、アルフォンソはふらふらと廊下を歩き、落ちた花束の上に、胃の中のものをすべて吐いた。
血濡れのまま医者を呼びに行き、それから父を刺したと警察へ自首し、全てを包み隠さず話した。

最後に見た母は、おねがい、誰か医者を呼んで、と座り込んだまま泣き叫ぶ姿だった。
その誰かが自分ではないことは、わかりきっていた。

こうして、アルフォンソは両親を失い、
こうして、夫婦は息子を失った。

青年は約束されていた将来を捨て、娘の手を取った。
娘は絹織りの牢獄から逃れ、青年の手を取った。

誰の思いを裏切っても、お互いを一番大切にしようと決めた2人だった。

或る飛行機乗りの話

いかにしてアルフォンソ・バラッカという飛行機乗りができあがり、どのように生きたのか。
ただしこれは、エースパイロットや恋多き貴公子の華々しさとは遠い裏の姿であり、
伝記というには少々痛ましく、感傷的な話だ。

彼の出身はイタリアの小さな港町で、人々は漁業と観光を資源として暮らしを立てていた。
漁師の男とその妻の間に生まれた彼は、父親に愛された記憶を持たなかった。

幼い頃は、いつも漁に出ればしばらく帰ってこない父親を、母と共に待っていた。しかし網の破損や嵐に船を持って行かれるなど、不幸が続き、父は漁を続けることができなくなった。色々な職を転々とした父親は、何かにつけて妻子に暴力を加えるようになった。大人しい母はアルフォンソを庇いはしたが、暴君のいる家から出ようとはしなかった。もとは両家の子女で、駆け落ちのように父と結婚したという母。誰かに頼って生きることしかできないのだろうと思った。父は恐ろしい存在ではあったが、母の内職の金を足せばどうにか暮らすことはできる程度の金を気まぐれに持ち帰ってきた。
「お前らさえいなければ」と口癖のように言う父を見限り、アルフォンソは働きに出るようになった。重苦しい閉塞感に満ちた家から逃げたいという気持ちもあっただろう。年齢を偽ってさまざまな雑務をこなして、いずれ母を連れて家を出るための金を密かに貯めた。

しかし、彼が拠り所にしていたものが崩れる日は、突然にやって来た。
ナイフを手にした父が母の手にナイフを当て、所有物に名を書くように、自分の名を刻もうとしたのだ。
激昂したアルフォンソはナイフを奪い取り、そのまま父を刺した。
父は刺さったナイフとアルフォンソを見て驚き、後ずさり、崩れ落ちた。
やってしまったと焦りながら、同時に、当然の報いだとも思った。むしろ、何故もっと早くこうしなかったのだろうとすら思えた。
しかし、次の瞬間彼は自分がずっと間違えていたことを知る。
母が泣き叫んで父に取り縋り、息子を呪う言葉を吐いたのだ。

母が自分を連れて粗暴な父の元から出ようとしなかったのは、生活のためではなかった。
母は虐げられて尚、父を愛していたからなのだと、息子の自分より粗暴な父を愛していたからなのだと思い知り、少年の希望は脆く崩れて消え去った。
アルフォンソは絶望のまま、自ら通報して警察に出向き、少年院へ送られた。
父は命をとりとめ、周囲の人間から彼の家庭や父親の行いについて口利きがあったため、それほど重い刑にはならなかった。

結果的に家から離れることができたアルフォンソは、両親のことを忘れたいと願った。
少年院を出ると、ずっと世話になっていた飛行機乗りが彼の身元引き受け人を名乗り出た。

養父の元で気力を取り戻したアルフォンソは、ある時養父に直談判して、航空学校への紹介状を書いてもらった。
母と暮らすため、幼い頃からずっと貯めていた金を学費の一部にあて、一心に飛行機乗りを目指した。

そうして飛行士のアルフォンソ・バラッカができた。
軍属として任務に励んだり、飛行機の操縦技術を高めることで、家のことやしがらみが己の身から剥がれ落ちていくような気がした。

幼い頃から、母親へ愛と献身を捧げてきた彼は、その大きな愛情のやり場を失った。
思えば注ぐ愛情は大きく、受け取ってきた愛情は少なかった。
彼は愛することはできても、愛されることにはいつまでも慣れなかった。

だから、航空学校時代から彼は恋多き男だったが、身を固めようとはしなかった。
むしろ、交際している女性が本気になりそうだと感じれば早めに愛想をつかせようとしてみたり、
その女性と相性の良さそうな男とさりげなく引き合わせることさえした。
たまに突き放しても彼を愛そうとする女性がいた。しかし、彼は彼女らに、狂った父を愛していた母の面影が重なって恐怖すら感じた。
もしかしたら目の前の女性は、自分が狂っても傷つきながらそばにいるかもしれないと恐れた。

アルフォンソは、行き場を失った愛情を注ぐ相手を常に求めていながら、
相手からの愛情を受け入れることができない、いびつな人間になっていた。

それでも、空軍として任務に励む間は、そんな自分のいびつなあり方にも向き合わずに済んだ。
彼は己の真っ赤な飛行機を女性の名で呼び、恋人と言ってはばからなかった。
まわりには気の置けない仲間たちもいて、酒を飲んでは語り明かし、女性と遊び、遅い青春を謳歌した。

しかし次第に空戦は激化し、彼の仲間の多くは空で死んでいった。
いつも空に逃げ場と死に場所を求めていたアルフォンソのほうが、生き残ってしまった。

仲間たちは生きて故郷の地面を踏めず、なぜ自分が生き残ったのか。
抜け殻のような日々のなかで、彼は何度も考えた。

そして、32歳になっていたアルフォンソは、航空学校の教官を目指すことを決めた。
彼の指揮していた隊は、生存率が高かった。偶然もあるだろうが、ただの幸運だとも思わない。
彼らの教官が、隊長がもっと優秀であったなら、死なずに済んだ者もいたはずだ。
これは傲慢な考えかもしれないと、自分でもわかっていた。
だが、やれることをやろう。アルフォンソははじめて、使命感のようなものを抱いた。

すべてはこれから、そんな時だった。
彼を死ぬほど愛していると言う女が現れたのは。

彼は彼女のことを知らなかったが、ろくに彼女のことを知る機会も与えられなかった。
深々と突きたてられ、数度ひねられたナイフで、彼女の歪んだ愛の形を否応無く知った。

アルフォンソは一度崩れ落ちたが、恍惚と笑う女を突き飛ばし、フラフラとガレージへ向かった。
途中で何度か背中を切りつけられたが、ナイフを奪い取って投げ捨てると、女は途端にうろたえて、うわごとの様に謝罪の言葉を吐いた。
それも、最早どうでもよかった。
たぶん内臓はぐちゃぐちゃで、この出血ではきっと助からない、と感じていた。
死ぬならば愛する飛行機とともに、空で死にたい、その一心だった。

美しい彼の飛行機は、跳ね馬のエンブレムを煌かせて、永久の自由へ向けて飛び立った。
操縦桿を握り続けられる限り長く、高く飛んで、彼はアドリア海の遥か上空で意識を失った。
身投げをするように一直線に落ちていった飛行機は海面に叩きつけられ、
部品を散らしながら、暗く冷たい海底へと沈んでいった。

こうして彼は誰とも確かな約束を交わすことなく海に沈み、その生涯を終えた。

はずだったのだが、何故か気づいたら見知らぬ場所にいて、髪は真っ白になっていた。
だから、これはやり直しを許された男の、もうひとつの物語となるだろう。
飛行機のないこの場所で、彼はどんな道を選ぶのだろう。

まあ人間、そう簡単には変わらないのか、
今日もどこかで空々しい愛を語り、報われない恋ばかり求めているようだ。

公爵家の悲劇と仮面舞踏会

100年よりもっと前、ある西の大陸に、立派な公爵家がありました。
立派なお屋敷に、たくさんの使用人。
父親の早逝により若くして爵位を継いだ、美しく奔放な青年公爵ファビアンと、その母親セレニア、彼らのいとこや傍系の親類が住んでいました。

とても仲の良い母子で、使用人たちも彼らを慕っていました。

お屋敷では何か祝い事があるたび、舞踏会を催しては多くの客人を招いていました。
月の美しい時期には仮面を被り、使用人も公爵も身分を気にせず踊ったその夜は、まさに夢のような時間でした。

ところがある日、森から帰ってきた彼は、動くしかばねとなっていました。
セレニアは息子の死を否定し、怪我をしただけと偽って、信用している限られた使用人以外にその死を隠し、動くしかばねの面倒を見続けました。

謎めいた黒魔術に傾倒するようになった彼女は、死化粧師を呼んで息子の折れ曲がった手足を元に戻し、防腐剤を詰めさせ、死体の腐敗を遅らせました。
一部の使用人や親類は、彼女を魔女と噂するようになり、屋敷を離れていきました。

しかばねのファビアンは、以前より感情の起伏が激しくワガママになりましたが、まるで己の死に気づいていないように明るく振る舞い、生前のように楽しく暮らしました……

けれど、そんな隠しごとが長続きするわけもありませんでした。
ファビアンの腐臭は隠しきれなくなり、セレニアはどんどんやつれていくなか、終わりは見えていました。

使用人の誰かの密告があったのでしょう。
噂を聞きつけた神父が屋敷に訪ねてきたのです。

聖水を振りかけられたファビアンは悲鳴をあげ、その崩れかけた体からは何かが飛び出し、暗い森へと逃げ去りました。
セレニアは嘆き悲しみ狂い、誰が息子を売ったのかと使用人たちに問いました。

公爵のことを好きな使用人も、それほど好きではない使用人もいましたが、
誰が密告したにしろ、誰もが、こうなるしかなかったと思っていました。

名乗り出たのは、セレニアが若い頃から屋敷に仕えていた、古株の料理長でした。
幼くして父親を亡くしたファビアンが赤子の頃から成長を見守ってきた、
誰よりかれら母子を知り、想っているはずの人です。

彼は、破滅に向かっていくあなたを見ていられませんでしたと、泣きながら謝りました。
失望し、怒り狂い、我を失い、料理長を罰せよと叫んだセレニアに、
従う使用人は誰もいませんでした。

セレニアは使用人たちを呪う言葉を吐くと、その日から部屋に篭り、ろくに人前に現れなくなりました。

呪いが本当にあったのか、確かめる術はもうありませんが、
屋敷に残っていた使用人たちは、次々に病に倒れました。
症状は、当時その地域で流行りはじめていた伝染病でしたが、ろくに治療法もなく、
まことしやかに「魔女の呪い」と呼ばれていました。

その奇病は瞬く間に広がり、絢爛だった屋敷は一転、死に包まれました。
生き残った者たちは屋敷から遠くへ逃げ、呪いを恐れて二度と戻りませんでした。

最期まで墓を掘り、婦人や仲間たちの世話をしていた執事長が倒れた朝、
ひとり残ったセレニアはふらふらと森へ入って行きました。

+++++++++++++++++

それから何年が過ぎたでしょう。
使用人たちの魂は無念のまま打ち捨てられた屋敷に染みつき、形を持たない怨念の塊となっていました。
しかしある時、森から揺れる火の玉がやってきて、公爵の声で彼らに呼びかけました。
使用人たちの魂は途端に自分が誰だったかを思い出し、火の玉のもとへ参じました。

火の玉は 言いました。
もう一度、舞踏会を開こう、と。

それから毎夜、火の玉の求めに応じて、彼らはかつてのようなパーティーを開こうとしました。
けれど、かつての栄華には程遠く、一度も満足することはできませんでした。
美食を味わうことも、ダンス相手の息遣いや体温を感じることも、ときめきに心臓をふるわせることも、きっと、生きた人間にしかできないからだと。

きっとかつてのような喜びに満たされれば、天へ召されるのだと誰もが信じていました。
形をうしなったものは、考える力もなく、最も楽しかった頃の記憶にとらわれるものでした。

そんなある日、お屋敷に魔法使いが訪れました。
魔法使いは、屋敷の幽霊をすべて追い出すようにと依頼を受けてきた者でした。
勿論追い出されるのは御免だと、屋敷の幽霊たちはおそれ惑い、怒りました。

魔法使いは、不思議な魔法で一冊の本に彼らを封じました。
しかし、強力な封印には解く方法も必ずあるのが、魔法のルールでした。

その方法とは、本の持ち主が十夜にわたり怪談話をし、決められた数、ロウソクを吹き消すこと。
回りくどい方法ですが、決して不可能ではありません。
強い力を持つ公爵のゴーストは、本を手に取った者の精神に干渉し、100年の間、何度もこの儀式を試みました。けれど、たいてい10夜も怪談話を続けることはできず、失敗に終わりました。

そして、ちょうど100年が過ぎたある日。
とある少年と、その仲間たちにより儀式は完遂されたのです。

だから、ゴーストたちはもう一度……
今度は生きているあたたかい体を借りて、パーティーをすることにしたのです。

月光の下で君を待つ

命の気配のない、この大きな広間では、ゆっくりと時が流れるように感じられる。
雪は音を吸い込むと言うが、確かに痛いほど静かで、かつての栄華や賑わいが幻のようだ。

柱時計の鐘の音が12時を告げる。
広間を音もなく滑るように歩くゴーストは、白く染まることもない息を吐いて、上を見上げた。
狼月が真上に昇っている。青白く透けた男の体は、わずかに色を取り戻す。

灰色の髪に、青みがかった緑の目。神経質に吊り上がった目元と真っ直ぐに伸びた背筋が、彼の生真面目さ、完璧主義をあらわしているようだ。

男は、アンジェロ・アダムスキー。かつてこの屋敷で執事長を務めていた。
天使(アンジェロ)という名を嫌った彼は、皆からアダムと呼ばれていた。

呪いとも噂された流行病により、屋敷の栄華は終焉を迎えた。仕えていた主人の血族も、使用人たちも、あるものは倒れ、あるものは逃げ出し、死が屋敷を覆っていく中で、彼は最後まで、倒れた者や主人の世話をし、遂には墓掘りも訪れなくなった屋敷で、墓を掘り続けていた。

たった一人で屋敷の中を歩くと、最後の日々が思い出された。
思えばあの頃の自分は頭に霞がかかったように、油をさしていない機械人形のように、鈍重で感情を失っていた。

同僚を1人埋めるごとに、世界から色が失われていった。
まるで悪い夢でも見ているように、己を失っていき……最後には、病に伏した同僚を見るとすぐに、「墓穴を掘らねば」と思うようになっていた。

そんな中でも、「彼」の死はよく覚えている。何しろ、最後だったのだ。

アダムより幾らか年下の執事で、物腰柔らかく、老若男女から好かれる人柄の持ち主だった。

最後に残ったのは自分と、彼と、婦人だけ。

「彼」の亡骸を見つけたとき、アダムは自分がどういう感情を抱いたかを覚えていない。折れないようにと、自らの感情を殺し続けた日々だった。

けれど、心などとっくの昔に折れていたのだろう。自分こそが、生ける屍だった。皆を弔うためだけに無理やり冷たい頭と体を動かしていた。
最後には弔う気持ちすら無くして、「彼」の隣に、己のための墓穴を掘った。

彼の亡骸が、微笑んでいたのか、泣いていたのかは思い出せないが、美しいままに逝ったことは覚えている。

(……遺書の内容はどんなものだっただろうか。)

アダムは、最後の舞踏会の夜から、己の存在が徐々に強まっていることを感じていた。「未練」と言い換えてもいい。

聖誕祭の夜、「彼」に手を握られてからは、余計に己の輪郭がはっきりとしたように思う。
あの時、伝わってきた心。

十数年を共に過ごした筈なのに、こんなにも知らないことがあったのかと驚き、もっと知りたいと求める己の心にこそ真に戸惑った。

それが伝わることを恥じて手を離してしまったが、体を失った身でこれ以上何を失うことがあるだろう。
どのみち100年の想いに、釣り合うわけがないのだ。

幽霊は自問自答する。

命を失ってはじめて、心に熱が灯ることなどあって良いのだろうか。
空っぽの抜け殻で、今更何を満たせというのだろうか。
後も先もない、行き止まりの存在だ。「彼」もまた。

けれどあの夜に己の心を知った。
彼の献身に比べれば、自分の想いなど、おそらくまだ幼稚なものだろう。生前ならば己もまた押し込めてしまったかもしれない。
今や隔てる文化も、立場も対面も無く、ただ心があるだけだ。

……そう、同じ行き止まりならば。 

幽霊は広間の中心にたたずみ、ダンスの相手を待った。

++++++++++++

何かに誘われるように大広間に足を踏み入れた金髪の執事は、天窓から差し込む明るい月の光を全身に受けるその人を真っ先に見つけただろう。
青白く透けた姿ではなく、生前の色をほんのり帯びたその身体と表情に息を飲む。
1秒だって忘れたことはなかった色だ。

一歩、一歩、ゆっくりと光の真ん中にいる彼の元へ近づいていく。足音はしない。
けれど、彼の耳にだけは、馴染みのある靴底の音が聞こえたかもしれない。
それくらい、生きている時と何も変わらない様子で、自然に寄っていく。

「……大きな、月が……昇っていますね。
どうも気持ちが落ち着かないと思っていましたが、……月に呼ばれていたのでしょうか。

アダム……あなたも?」

「……ああ、フローレンス。
今夜は何か、思い出すことが多い。静か過ぎるのかもしれないな。
だが、呼ばれたと思ったのなら……きっと月ではなく、私だろう。」

アダムは、待ち人へと視線を向ける。

ルカ・C・フローレンス。
最後の日々を過ごし…………そして毒をあおり、自ら命を絶った同僚。
豊かなやわらかい金色の髪に、アメジストの瞳。
穏やかなやさしい表情は幽霊になっても変わらないらしい。

幽霊となった今も生前と変わらないその姿を見れば、彼をこの手で弔ったことなど嘘のようだった。

「あなたが、……僕を?」

ルカは驚いたように息を詰める。けれど、あくまでいつものようにと努めて、穏やかな笑みを作った。側に立ったまま、言葉を待ちながら。

「月を見ながら、あの夜お前に言われたことを考えていた。」

アダムはそう言って一歩を踏み出し、距離を縮めた。

「あの夜の……、あれ、ですよね。もう忘れてくださっても、良いのに。」

「馬鹿を言うな、忘れられるものか。」

アダムは小さくため息を吐いた。

あの秋の夜、屋敷の幽霊たちが開いた、最後の舞踏会。
その最後に、アダムはルカとダンスを踊り……彼がずっと胸に秘めていた思慕を告げられた。
それはアダムにとって、まったく思いもよらないことだった。動揺して問い質そうとするアダムからルカは逃げ回り、有耶無耶になったまま。
結局今に至るまで、その話はできていない。

アダムの視線を受けたルカはしばし沈黙し、そして再び唇を開いた。

「…………何を考えていてくださったのでしょうか。
聞いても?」

そう問いかける声音は静かに。けれど、少し臆病な、どこか後ろめたそうな色を帯びている。

憂いを帯びた青年は心中で呟く。

(…………生真面目なあなたはいい加減なことなんて、できないでしょうから。もしかしたら、……この世界に引き止めてしまうのではないか、と、それだけは危惧していました。……恨まれていても、仕方ないかな。)

ルカの心中に呼応するように、アダムの姿もまた、時折ろうそくの火のように儚くゆらめいた。

「答えなど求めていないのはわかっている。私もあの時は、答えを持っていなかった。……私はな、恋や愛に疎い朴念仁だ。お前が何故私にそんな想いを向けたのかも……全く見当がつかなかった。」

長い言葉の先を静かに待たれながら、己よりくっきりとした輪郭を見据える。

「それでもお前に触れられた時に……お前の心が少しだけ私に流れて来た。
私はそれを……美しいと思ったんだよ、ルカ。
同時に、己の空虚さを……お前の心をもっと覗きたいと……浅ましい望みを抱いたことを恥じた。」

男は自嘲するように、わずかに微笑んだ。

「アダム………。」

思わず洩れたような呼びかけ。もう、彼の名を呼べる者はこの世に片手ほどもいない。その中でも、最も耳慣れた声。
見習いとして公爵家に仕えはじめた子供の頃からの仲なのに、知らないことが多過ぎる。

目線を一度外したあと、アダムは手袋を外し、まっすぐ目の前の相手を見つめ、手を差し出した

「だが……お前にならば、私の知らぬ私の心を明け渡しても構わないと、覚悟した。

私はもっとお前の心を知りたい。
触れて、確かめたい。」

これがただの欲なのか、恋というものなのか……少なくとも私は、お前が考えるほど崇高な人間では無い。それがわかれば、お前の心も変わってしまうかもしれない。
……美しいままに終わらせたいのなら、断って構わないが。

もう一度、私と踊ってくれないか、ルカ。」

「…………。」

ルカが言葉を発するまでのわずかな静寂が、アダムには永遠にも感じられた。

「僕はあの夜、あなたに想いを伝える時、
同時に恨まれることを覚悟していました。
想いは、言葉にした時点で形となり、伝えた時点で……祝福にも、呪いにもなってしまう。

僕はあの夜、あなたに呪いをかけてしまったのかもしれません。

…………僕は。
僕はあなたに、もっと深い呪いをかけてしまうかもしれませんよ。
それでも構わないと仰ってくださるなら、

…………断る理由がどこにありましょう。」

ルカは同じように手袋を外す。
すらりと細く長い指が、差し出した手にゆっくりと重ねられた。

幽霊は体温は持たない。
けれど、アダムには、失ったはずのからだの熱をそこに感じたように思われた。
それはきっとこの執事の、青年の、心の熱だろう。

「楽隊がいないのは少し寂しいですけれど。
でも、目を閉じたら……聞こえてくる気がしますね。
あなたとこの場所で何度も何度も聞いていた音楽が、きっと魂に刻まれているんでしょう。」

明るい月の光は、二人を照らす荘厳な照明に。
手を取って、身体を寄せ合って。

「……では、ワルツを。
曲は……月夜の晩餐会で演奏されていたものにしよう。」

手を重ね、冷たい指先から伝わってきた想いの熱に、アダムの瞳の色も鮮やかさを増す。

その熱を手繰り寄せようとにわかに波立ち、目の前の青年に向けて静かに打ち寄せ始める心を、もう隠すことは無い。

彼の双眸に宿るみどり色を美しいと、ルカは思う。月の光のおかげだろうか。重ねた掌の内側にこもる熱を逃さぬようにと握り返せば、またそのみどり色は鮮やかに揺れたような気がした。

こんなに近くで、その瞳を覗き見たことがあっただろうか。
意識を吸い込まれる。

ワルツを、というアダムの声には、ぼんやりとした返事が返ってきた。

アダムは大きく胸を開くようにリードの姿勢をとって、すうと息を深く吸い、ゆっくりと足を踏み出した。

記憶のレコードの針が魂に刻まれた溝をなぞり、懐かしい曲が、二人の内に響きだす。

ルカの身体も、自然と柔らかなステップを踏み始めた。

「……お前が、私に呪いをかけたと言うのなら……。」

ゆったりとリズムに身をまかせながら、アダムは思いつきのように囁いた。

「……もしも私が、お前を恨む、と。
許さないと言ったら、どうするつもりだ。」

「もしあなたが僕を恨むと……
許さないと仰るなら。
僕はあなたの気が晴れるまで、その償いをします。僕にできることなら、なんでも。恨み言も聞きます。身体を刻まれてもいい。

…………今度は……。
あなたのどんな表情も、姿も、受け止めて……僕も苦しみ抜きたい。」

心中に留めていた泥を押し出すように、ルカはぽつぽつとそう呟いた。
優しいリードの中に、真っ直ぐな熱情を感じながら。
触れ合う指先から流れ込んでくるそれをうまく言葉に表すことはできないが、彼の魂の奥深くに触れているのだろうという確信だけはあった。

押し出した想いは、確かに本心だ。

――さっきの彼の言葉に、生前であればきっと抱くことのなかった一瞬の高揚があったことを自覚している。
だからこそそれに比例するように、あの日の――自ら命を絶った夜明けの――罪の意識も、内側で膨れ上がっていた。

アダムの問いへの答えには、その意識も僅かながらに滲んでいる。

きっとこのくすんだ気持ちも、伝わっているだろう。そう思うと、澄んだ翠玉の瞳を直視できなくなり、ルカは無意識に視線を右下に落としてしまった。

「……償いなど、必要ない。」

アダムは静かに、しかしはっきりとそう言う。

「感謝こそすれ、私はお前を、恨んでなどいない。
 責める気もない。今も、昔もそうだ。」

そう答えながらも、償うと、なんでもする、受け止めるという言葉に、喜びが湧き上がるのを隠すことはできない。
それが何を意味するのか、アダムにはわからない。けれど、伝わってきた罪悪感は、己にも覚えのあるもので……だからこそルカの望みにも気付いた。

「……お前は、私に裁かれたいのか。
それなら、ちゃんと私を見なさい。」

ぐっと上体を傾けるようにしてルカの体を支え、その目を覗き込む。

「っ……。」

そうだ。
ルカの、恨まれる覚悟の正体は、同時に罪悪感と後悔から逃れるための希望でもあった。
貴方から罰されれば、その罪の意識が少しは軽くなるのでは、と。

言い当てられ、ルカは言葉を詰めた。
覗き込んでくる美しいみどり色の前では、そんな動揺もやはり暴かれていくような感覚になる。
もう一度捕われて、目が離せなくなる。

「一つ、思い出したことがある。」

アダムはそっと姿勢を元に戻すと、独り言のようにぽつりと呟いた。

「お前を葬ったとき……確かに、私はお前を羨んだ。だが、同時に安堵した。お前の苦しむ姿を見ずに済んだことを。」

記憶の糸をたぐりながら、鈍った感情の奥にあった思いを吐露していく。

「……私は愚かだった。羨むなどもってのほか、そして安堵も間違いだった。お前はもう十分に苦しんでいた。

私は弱く、とうに正気を失っていたのに、お前は……お前のまま、あの日々を過ごしていたのだろう。
生きた屍のような私と、死に包まれた屋敷で。」

それは一体、どのような苦痛だったのだろう。思い慕う相手は既に生き人形のように心が鈍り、その献身に気付くこともない中で、ルカは自分を失わなかった。
引き際も己で決めて、最期まで彼のままだった。

「正気を失っても、まだ立っていられたのは、お前が変わらず傍にいたお陰なのだろう。私はずっとお前に救われていたのに、それに気づくことができなかった……赦しを乞うのは私のほうだ、ルカ。」

それは、まぎれもなく懺悔だった。

あの日々の、愛した人の胸中を前にルカは動けないままいた。
思いもよらなかった吐露の、最後の一言まで待ち、それから緩く頭を横に振る。

「…………アダム。
いいえ、苦しかったけれど、辛かったけれどそれでも……それでも僕が僕のままあの日々を過ごしていられたのは、あなたがいたからですよ。
死が屋敷を包んでいたとしても、あなたが……いたから、僕は。

……救われていたのは僕です。
だから、そんな顔はしないで。」

眉尻を下げて泣き出しそうな顔で微笑んで、ルカは罪人のように項垂れる男にそう告げた。
しかし、アダムは首を振る。

「いや、違う、私にお前の慕うような崇高さは無いんだ。
今、お前の傍にいたいと願うこの心は……贖罪とはほど遠い我欲だ。お前が私のために苦しんだことにさえ、私は喜びを。」

執事長は葛藤のにじむ声色で、心の澱を吐き出すように、横を向いた。

「とても、お前のそれのように美しいものとは思えない……ルカ、教えてくれ。
これは、恋なのか?」

再びルカに向き直ったその表情は、いつも毅然としている男らしくもない、祝福を乞う迷い子のようだった。
恥じるように細められ、けれど熱情のこもった瞳が、ただ一人だけを求めてゆらめく。

「…………僕はあなたのその問いに、自信を持って答えることはできません。

でも。
あなたが僕の傍にいたいと……願ってくださっているのなら、それは……。

それは、僕と一緒です。
僕もあなたの傍にいたい。
そう願っています……ずっと、ずっと。願ってきました。

そして僕はこの想いを、あなたへの恋なのだと認めています。」

そう語りかける声音は、先ほどまでの動揺を感じさせぬ凛としたもの。
アメジストの瞳が、月明かりに照らされる翠のビードロに応えようと縋り付いた。

望んではいけない。求めてはいけない。気づかれてはいけない。そう自分を律して蓋をしたものがあった。
それらが今、箱の中でにわかに色めき立っている。
とうの昔に身体を失くした魂だけの存在でありながら、行き止まりの道でありながら、……ここにきて希望を抱くなど。

あってはならないと思いながらも、それでも、100年越しに触れた愛する人の魂の奥底に、ほんの少し、期待を寄せてしまう己を感じた。

きっとこれらも決して美しいものではない。――アダムのその戸惑いを、嬉しいと感じてしまうから。

繋いだ手から、潤んだ紫の目からみどりの双眸へと、想いが高潮のように押し寄せる。
アダムはそれに押し流されることなく、心に灯った火をもってその想いを、縋る視線を受け止める。

アダムはゆっくりと、まるで生まれて初めてまぶたを上げたかのように、長いまばたきを2度、3度して。
そして、想いの名を知った。

「ああ、ルカ。十分だ。
私にも、わかった。 」

胸の内に流れる音楽は、最後に長い一音を残して止まる。

強く腕を引いた瞬間、音もなく欲するものは腕の中に収まり、再びすべての時が凍ったような静寂が訪れる。

しかし、そのしずけさはもう、冷たいものではなかった。

「ルカ、私は今や恋を知ってしまった。
……愛おしいと、想う心を。
お前が教えてくれた。
だから、天国でも地獄でも、お前のいる場所に私はいよう。
行き止まりでも構わない。
この魂が擦り切れるまで……傍らにいさせてくれ。」

心が燃えているからだろうか、不思議と寒さは気にならない。
ルカの柔らかい金の髪を撫でる手の感覚はなくとも、代わりに魂が溶け合っているように感じられた。

アダムの中にも確かに萌芽した、相手を求め欲するだけでなく、己の全てを捧げたいという想い。
幸あれという祈り。
そして剥き身の自我への不安が、混ざり合い溶け出してゆく。

「……っ……アダム……。」

詰まりがちに呼ぶ声は、ルカのものだ。

「本当に、いいのですか。
まだ……僕は……あなたの側にいてもいいのですか。

あなたも、いてくださるのですか。」

抱き寄せる腕の中に収まりながら、止んだ音楽の余韻を遠くに聴きながら、少し背の高いその人をルカは見上げた。

魂と魂が溶け合った一つのシルエットを
ぼんやりとその足元に形作るかのように月明かりが降り注いでいる。

身体はなくとも心は確かにそこに存在している。

撫でられる感覚が心地よかった。
触れ合う場所から疑いようのない心の熱が流れ込んでくる。明確な言葉では表せない、熱情。
行き止まりの命だ。
もう取り繕う必要も偽る意味もないと知っているから

蓋をしていた100年分の思慕が
真珠のような滴となって
ぽろぽろと、白い頬の上を伝い落ちていった。

落ちた滴が床を濡らすことはない。
雪のようにふんわりと溶けて、消えていく。けれど、もしアダムがそれに触れるなら。
きっと、滴はその魂に溶け込んでゆく。
嬉しさと、切なさと、焦がれる想いと、安堵が。今度こそ、終わりの終わりまで共に居させて欲しいと願う想いが、アダムの魂を満たす。

「……アダム。
このまま少しだけ、聞いて下さいますか。

僕は……あなたへのこの想いを自覚した時に、けして伝えてはならないと己を戒めました。
公爵家の使用人同士の、なんて、スキャンダルもいいところですし。何より僕は、あなたとの日々が変わってしまうことを……恐れました。
僕は、臆病だったんです。

でも……あのように、病が流行って……あんなことになってしまって。
死の間際に、やっぱり何としても伝えておいたらよかったと酷く後悔をしました。
……その後悔と一緒に、無に還るはずでした。

それがどうしてか、どんな因果だったのか……僕たちは身体を失った今でも、魂だけの存在としてここにいる。

あなたは僕の抱いてきた想いを美しいと、先程言ってくださいましたね。
でも、そんなことはないんです。

……あなたの言葉が、嬉しかった自分がいます。
僕の死を……覚えていてくださったことに。
嬉しくなってしまった。本当はこんなこと、考えてはいけないのに。
皆の苦しみを、無念を……忘れてはいけないのに。
あなたがこうして再び僕の隣にいてくれることが……、

どうしようもなく、嬉しい。」

「そうか。」

長い長い告白を黙って聞き、アダムはそう短く答える。
腕の中の魂が脆いガラスか何かで出来ているような錯覚をして、おそるおそる腕を緩め、ルカへ視線を注いだ。

「……わかっているさ。だが、それでも……美しいと思った。
いじらしい、とでも言うのだろうな。」

涙のこぼれ落ちる頰に触れて顔を上げさせ、額同士をこつりとくっつけた。
いとおしい、という心の震えがルカにも伝わるだろうか。
言葉を重ねずとも、心が伝わることは困ったものだが、今はそれがありがたいとアダムは感謝した。ついでに、己の淡い色合いにも。
もしも血が通っていたならきっと、恥じらいで耳が赤く染まっていただろうから。

「……後悔も、自責も、あって構わない。それぐらい受け止められる度量が無くては、公爵家の執事長など務まらないからな。」

わずかに口角を上げ、目元をゆるませたその表情は、従僕としての作り笑顔ではない、アダム自身の微笑みだ。

「残された時間、私はお前と共にいる。懺悔も恨み言も、好きなだけ聞こう。
……だから、それ以外のことも、お前の口から聞かせなさい。
私はお前の手に惑い、想いに、眼差しに心を打たれた。
だが、何故お前が私のことを想うようになったのかを知らない。」

あの夜に聞こうとして聞けなかったことを、今度こそ言わせてやろうとアダムは心に決めているようだった。
知らないことだらけの同僚を、今度は恋人として知っていこうと。

「ああ、多少長くなっても構わないぞ。
幸い、我々は眠らなくとも困らないのだから……。」

今度は逃げ出せないように、しっかりとその魂をつかまえて、堅物執事は大真面目に言った。

「えっ……その、……それは。
アダム、今はその話は……ね?」

今度こそ言い逃れも、逃走も出来なさそうな話題を慌てて逸らそうと目を丸くする。
それでも、その大きな背中に回す手の力は緩めなかった。ぴったりと胸を、腕を、魂をくっつけて、離れない。だから、きっと心は伝わってしまうだろう。

「あなたがふとしたときに垣間見せる、そういう微笑みに、いつしか心を奪われていたのだ」と。

長い長い一夜を、執事はもう勘弁してほしいと言いながら照れと半泣きになった顔で過ごすことになるのだろう。
観念して告白をひとつ零すたびに、ないはずの心臓が少し駆け足に脈打つ感覚を覚える。
それを、愛しい人と共有する。
嬉しくて、いとおしくて、終わりの先の道であるというのにとても幸せな想いで満たされていた。

今度はこちらから少し背伸びをして、額同士を付けた。
触れ合う額から感じる熱は、たましいの持つ優しい炎。

紫の瞳を伏せて、そうっと唇を寄せた。

(今度はもう手を離さない。
 今度はもう、目を逸らさない。)

満月に見下ろされながら、行き止まりの恋は満ちていく。
“あの日”を最後に白紙となっていた日記帳へ、ふたたび新たな一節が、綴られていく――。

重なった淡い横顔のシルエットが離れたあとも、腕の中のあわれな恋人が1から100までを洗いざらい話すまで、尋問めいた長い夜は続いただろう。

或る歌手の死

 夜明けを望みます。
 滅びを望みます。

 そう言える者であれたらと、
 望んでいました。

ミハイル・アントネスクは、人間の歌手だった。
少なくとも、5年ほど前は。

さる西の大陸の一国では舞台芸術の文化が豊かで、辺境地主の庶子であった彼は、少年の頃から美しい歌声と美貌に秀で、若くして歌劇舞台に欠かせない存在となっていた。

ある日、彼の後援者(パトロン)になりたいと、貴賓席の常連客が声をかけてきた。
彼の歌声にいたく感じ入り、力になりたい。
支援を惜しまないから、我が館にきて、晩餐の席でも歌ってほしい、と。

花形とはいえ年若く、劇場との付き合いもあるミハイはこの上客の誘いを無碍に断れなかった。

呼ばれた館は、どの窓にも分厚いカーテンがついていた。代わりに燭台が多く、煤払いの使用人が忙しくしていた。
廊下に並ぶ調度品はすべて歴史的に貴重なものであり、日光による劣化を避けるため、このようにしてあるのだと。
館の主人は余程、骨董品に愛着のある人物らしい、と思いつつ、ミハイは案内されるままに館の奥へと進んだ。

晩餐の席で彼の歌を聴いたあと、館の主人は奇妙な話をはじめた。
「本当に素晴らしい。磨き上げられた天上の歌声だ」
「だからこそ、惜しい。歌声も美貌も、いずれ衰えるもの」
「貴方の全盛期はまさに今、このときです。ここより先はない」
「その忌まわしい運命を変えたいと思うことは?」

その声は霧の奥から聞こえてくるようで、甘美に誘う響きがあった。

ミハイは慎重かつ、丁寧に答えた。

「価値……美しさにも種類があります。
変わらない美しさと、変わる美しさ。
時の流れに従って老いるのならば、それも自然の営みの一部だと思っています。
それに、全盛期とは、人に決められるものではありません。幼い頃に持っていた無垢な輝きを、いまの私は失いました。それでも、別のものを得て満ち足りています。
割れた古代の器にも歴史という価値があるように、私は老いてこそ得られる価値もあると思うのです」

落ち着いた気丈な言葉とは裏腹に、ミハイの顔は蒼白になっていた。
館の主人の口元に覗く鋭利な牙や月の光に怪しく光る目を見て、気づいてしまったのだ。
ここは吸血鬼の館だ、と。
 
自分は贄として呼ばれたのかもしれない。
悲壮な覚悟を抱き始めたミハイに、それよりももっと青白い顔の主人は微笑んで告げた。

「貴方はまだ老いや死に面したことが無いから、わからないのでしょう。だが、私は知っている。
体は衰え、声は掠れ、目が濁ったそのときに、昔を甘美に思い出さぬ者は無いのだと。
貴方が一言、ただ一言、明けぬ夜を望むと告げてくれたなら、喜んで我が血族に迎え入れましょう」

 ミハイは震えながらも首を振った。

「失われるからこそ、尊いものもあるとは思いませんか。今しかないからこそ、私はこの命すべてで歌うことができるのだと」

 館の主人は、慈しむような、しかしある種の嘲りをはらんだ瞳で、彼を見返す。

「いいえ、貴方はまだ自分に多くの時間があると思い込んでいる。それは、若さゆえの読み誤りだ。命すべてを賭した歌声など、明日のある者には出せぬものです。
けれど貴方は賢く礼儀正しく、歴史に敬意を持つ者だ。
ならばこそ、貴方の何倍も生きている私の言葉を聞き入れなさい。失ってからでは遅いのだから」

「考えさせていただけますか。私の如き若輩の身には、あまりに壮大なお話です」

「ああ、どうぞじっくり考えてください。
でも、あまり時間をかけすぎないように。
我々にはいくらでも時間がありますが、貴方は、そうではないのだから」

屋敷の主人は快くミハイを屋敷から送り出し、ミハイは生きて舞台へと帰ることができた。
約束通り、館の主人に言われたことを、ミハイは何度も考えはした。けれど、何度考えても、答えは否、だった。

ミハイにとっての美しさは生き方や考え方にも及び、必ずしも外形にとらわれるものではない。
元からそうであるならば仕方のないことかもしれないが、生き物の境を超えた永遠の若さのために他人の血を啜るのは、ミハイにとっては決して美しい在り方とは思えなかった。

それから1年程は音沙汰なく、あれは悪い夢だったのではないかと思いはじめた頃に、事故は起きた。

火を使った舞台。急な地震。老朽化した劇場。
それは最悪の巡り合わせだった。
事故で落ちてきた照明の下敷きになり、ミハイは大怪我を負った。
火の手が上がった劇場から人々は逃げ去り、ミハイは取り残された。

熱い周囲と裏腹に体はあたたかさを失い、声は掠れ、目がかすみはじめたとき。
急に炎が弱まり、眼前に青白い手が差し伸べられた。

「こんなことで貴方の歌声が失われるのは、とても残念だ。世界にとって筆舌に尽くしがたい損失だ」

 霧の向こうから響くような声。悪夢の再来だった。

「時間がない。考える時間はたっぷりと与えたはずだ。すぐに決めなさい」

 矜持も、美学も、なんと儚いことだろう。
 そのときミハイの頭にあったのは、明日に控えた大舞台のことだった。もう歌えない。
 望んで緩やかに老いることすらも、もうできない。

「明けぬ夜を望め、ミハイル」

二度、首を振った。
けれど、三度あらがうことはできなかった。

かくして、彼の“生還”は奇跡として世に受け止められ、名声はさらに高まった。
それが、5年ほど前のこと。

今やミハイル・アントネスクといえば国一番の歌い手で、高低自在の完璧な歌声を保ち続けていた。

けれど、当のミハイの心は沈んでいった。
吸血鬼化はゆっくりと、確実に進行していた。老化が止まり、日光がしみるようになった。鏡にもはっきりと映らない。
日光を浴びたがらないのは美貌を保つためと言い訳はできるが、歳をとらない自分はいずれどのみち、舞台には立てなくなる。そうミハイは悟りはじめた。
そうなれば、血族たちの宴でしか歌えなくなるのだろう。吸血鬼狩りに怯え、彼らの庇護を求め、人を贄として、言うことを聞くのだろう。
それはかつて望んだ美しい生き方とは、程遠いに違いない。
いや。
美しく生きられるはずだったミハイル・アントネスクはあの日に死んだのだ。
死人がいつまでも舞台に居座るべきではない。

そしてミハイは、後に伝説となる大舞台を終えた日の夜を最後にその姿を隠し、輝かしい芸歴に幕を引いた。

花形スターの失踪と時を同じくして、夜明けにひとりの青年が、遠洋の大陸を目指す船に乗った。

舞台には縁遠い水夫たちには、誰に見咎められることもなく、拍子抜けするほどあっさりと、船は母国の港を離れた。

己のいた世界が案外小さな板張りであったのだと知った青年は、小さく微笑んで手を朝日にかざした。

灼けつくような痛みが襲えば、反射的に引っ込める。滅びへの恐怖は、消えていない。

「それでも、夜明けは来るもの」

小さくつぶやいた青年を乗せ、船は海を進んでゆく。

いくつもの昼と夜を越えて、
はるか遠く、流転の地へ。

指輪の魔神の物語

0.

おれは、魔神ナールが灯した火から生まれた魔人だった。眷属、という扱いになるんだと思う。
生まれたときからナールの家来として、やることは色々あった。魔宮づくりも、手伝った。
それが終われば、ナールの神殿の警備の仕事があった。その時のおれには自分ってものがあまりなくて、ただぼんやり何十年、村の人たちの様子を眺めてた。
ナールは気まぐれに、人間にいいこともすれば、悪いこともした。
人間はナールの機嫌をとるために貢物をして、おれたちを見るといつも地べたに頭をつけて、平伏した。
おれははじめ、人間のことにさして興味がなかった。
村にも、豊かなのと、貧しいのがいた。豊かなのは丸々太って、貧しいのは小枝みたいで、いつも食べ物を探していた。
豊かなやつは、おれにも貢ぎ物をしようとした。籠いっぱいの果物を、大魔神さまによろしく、だとか言って。
ただの眷属がナールに物言いをつけられるわけがない。俺は面倒くさくて、何も言わなかった。押しつけられた食べ物を、どうするべきかもわからなかった。
主人のナールに持っていくのが正しかったのかもしれないけど、そもそもナールは貢物になんか興味がない。食べ物だって、食べたりせずに燃やす。ただ、人がちゃんと自分を畏れているかの基準として見ていた。
おれがもらった貢ぎ物を眺めていたら、痩せた人間がじっと、こちらを見ていた。
おれも向こうを見ると、人間は驚いて逃げようとした。でも、おれが待てと言ったら止まって、こわごわこちらを見た。
おれは、自分でもよくわからなかったけど、人間をそばに招いて、籠の果物をやった。いま思えば、食べるところが見たかったんだと思う。
おれやナールは、食べ物を燃やすだけで、口に入れたりはしなかったから。
人間はずっと怯えていたけど、果物を食べるのはやめなかった。食べたいだけ食べたら、何かモゴモゴお礼を言って、残りを汚れた服に包んで振り返りながら帰った。
おれはこの時、間違えてしまった。人と、ジンとの距離をあの人間に間違えさせてしまった。

1.

それから季節がひとつかふたつか過ぎた頃だった。
日照りがひどくて、人間たちは不作に苦しんでいるようだった。ナールのところにも陳情があったけど、雨を降らしたりはしなかった。ナールは、雨が嫌いだから。
ナールへの貢物も、不作の影響だとかで減った。ナールは面白くなさそうにしていた。
神殿に近寄る人も減って、村からは人が離れはじめた。
そんな時だった。
飢えた人間が、神殿の祭壇に置き去りにされた供物を、その場で食べ始めたのは。
祭壇に登れば、おれが何もしなくともナールに伝わる。
ナールはすぐにやってきて、供物を燃やしてしまった。
人間は怯えたのか、食べ物が燃えてかなしいのか、目だけをぎらぎらさせて、おれたちを見上げていた。
ナールは、盗人を燃やそうと片手を上げた。
この人間は、飢えて魔神の供物に手を出した。
ならば魔神の火で焼かれるのは仕方がない。実際、それを覚悟してやるべきことなのだから。
罪には罰を。不敬には刑を。魔神の理屈では当たり前のことで、おれは、何かするつもりなんてなかった。
「その人間、見逃してやってもいいのでは」
誰が言ったのかと思った直後に、おれが言ったのだと気づいた。
つい、口から言葉が滑り出てしまった。
一度開いてしまった口からは、次々に言葉が飛び出した。
「どうせあなたは、供物を食べたりしない。
 いらないものなら、やってしまえばいい」と。
ナールは、食事中に突然「皿の上の野菜や魚がかわいそうだ」と泣き出した子供を見るみたいに─ つまり、とても面倒くさそうにおれを見た。
勿論こんな例えは、今じゃなければ思いつかないから、思い返してみれば、の話だ。

2.

……いや、子供なんかじゃない。
おれだって、上級魔神のナールにとっては、野菜や魚とそう変わらないものだった。
せいぜいは食器がいいところだ。
あの目で見られたとき、おれはすぐにそれを思い知って、身震いした。
ちょっとした気まぐれのせいで、おれは人間もろとも消されるんだと後悔した。
だけど主人は、片手で人間を追い払った。見逃してくれた。
人間は後も見ずに逃げていった。
そしておれを見て主人は、笑いながら言った。
私にもの言いをつけた罰だ。
お前に人間というものを教えてやる、と。
ナールはおれを、魔法の指輪に閉じ込めた。
100人の願いを3つずつ叶えなければ解けない呪いだ。
そうしておれは、色んな人間の手に渡りながら、願いを叶え続けた。

3.

はじめは、100人なんてすぐだと思ってた。けれど、違った。
皆、おれをしもべにすると大抵はお金を欲しがった。そして、2つめ、3つめの願いを出ししぶっておれを、指輪を隠した。
一度仕舞い込まれると長い間呼ばれることもなく、そのせいで、1000年経っても願いを叶えられたのは10人にも満たなかった。
指輪を巡って肉親同士が争うこともあった。
願いを増やさないと指輪を溶かすと脅す主人も。
おれに人を殺せと命じる主人もいた。
それはできないと言うと、遠回しな方法でそれを手伝わされた。
1000年、2000年と経つ頃には、おれはすっかり人間に愛想が尽きていた。
魔神ナールは多分、おれを試したんだと思う。
そもそもおれは、試すに値するほど人間に何か希望を思っていたわけじゃなかったのに。

4.

そんな頃に、どういう巡り合わせか……おれは金持ちの手から転がり出て、ひとりの奴隷の子に拾われた。
マタルという奴隷の子どもは、指輪から出てきたおれに、まずは自由を願った。
おれはすぐにその願いを叶えてやった。鎖をはずして、主人の手の届かない、暮らしやすそうな村へ連れて行った。

問題はそのあとだった。

二つ目の願いは、この場合なら金のはずだった。いつもそうだったから。
けれど、マタルはおれに、魔神のおれに「友達になって」と頼んだ。
正直ごめんだと思った。さっきも言った通り、すっかり人間不信になっていたから。
だから、「友達になってほしいなら、まず自由にしろ」とおれは返したけど、マタルは賢かった。

「いま自由にしたら、きっと何処かへ行ってしまうよね?
それじゃあ、友達になれない」 と泣きそうな顔で言うんだ。

勿論、そのつもりだった。
おれを懐柔して、うまくのせればいくらでも願いを叶えてもらえると思ったんだろう。子どものくせに浅ましい、そう思った。

けれど、魔神は願われれば、叶えなければいけないから、おれは友達になるしかなかった。マタルと同じぐらいの歳や背格好に姿を変えて、それからずっと、マタルと一緒の日々だ。いつ自由にしてくれるのかと聞くと、マタルはいつも、二つ目の願いが叶ったら、と言った。まったくかしこくて、失礼なやつだった。

5.

青年になったマタルは、
砂漠の魔宮に挑むと言い出した。魔宮の財宝を得て、すべての奴隷を自由にすると。
マタルが子どもの頃に、おれが寝物語に砂漠の魔宮の話をしたせいだ。
魔宮は、ナールが英雄気取りの人間をからかうために作らせたもの。
最下層には、確かに魔神に捧げられた財宝がある。けれど、そう簡単に辿り着けるようにはできていない。
特に、最下層の「仕掛け」は残酷だ。

けれどおれはすべての「仕掛け」を知っている。だからこそ、マタルは勝算があるとにらんだらしい。
そして確かに、途中までは上手く行った。
けれど、マタルは最下層で、砂漠の獅子にやられてしまった。
砂漠の獅子は、女の顔に獅子の体がついた怪物だ。マタルを引き裂き終わると、興味を失った。やつは、人を喰いもせずに殺す。魔神のおれは、無視された。
虫の息のマタルに、おれは最後の願いを使うように言った。「自分を治せ」と願うようにと。
自由になるのは、別の誰かに願ってもらうと。

けれどマタルが願ったのは、「全部忘れて、自由になれ」だった。


それじゃ願いがふたつ必要だと断った。
するとマタルは、笑って言った。「2つ目の願いは叶ってないだろう」と。
マタルは「お前なんか、最初から友達とは思っていなかった。お前もそうだろう。言うことをいくらでも聞いてもらうために言ったんだ。そんなの友達じゃない」
確かにおれは、マタルを友と呼んだことはなかった。だけど、それならお前を治して、ここから出られるよう願えと叫んだ。
返事はなかった。マタルにはもうその力は残っていなかった。
このままマタルが冷たくなれば、おれは指輪に戻るだけ。マタルの願いは叶わず、亡骸もおれも、誰に見つかることもなくここで眠り続ける。
自由になれば、瀕死のマタルを治せるほどの力はなくなる。癒しの力は願われてこそ。魔神のおれ自身にあるのは、炎の力、壊す力だ。

悩む暇は無かった。おれは……マタルの最後の願いをできるだけ叶えることにした。
けれど、おれ自身が納得できていなかったから、丸ごと忘れて、自由になることはできなかった。
おれは己の半分だけ切り離して、全て忘れさせて、自由にした。
いずれは擦り切れて消えるのはわかっていたから、マタルを弔うためにここに帰ってくるように暗示をかけたけど、どちらでも良かった。
残りのおれは指輪に戻り、マタルと共に眠り続けた。

そして今、思い出した。

おれは魔人カイス。
マタルの友達。

……レベリンは、マタルがおれに最初につけようとした名前。そのときは、断ったんだけど……。

これが、おれの話。